秋の特別伝道礼拝
「愛には恐れがない」
2025年10月26日(日)
昨年は伝道礼拝に「なぜ、私は生きているのか」と説教し、富は命に役に立たないということを聞きました。今回は、人が生きる(命)に欠かせないものは何かについて聞きます。
この疑問にも聖書は明確に語っています。「それは、神の愛(アガぺ)である」と。
今の世の中では、あらゆる人間関係において「愛」に欠けていると言わざるを得ません。「愛などどうでもよい。まず経済(マネー)だ」。という価値観に誰も疑問を持たないのですが、マネーは命に役立たないのです。「愛」と言ってもそれは、人間の愛を指すに過ぎず、また人はそれしか知らないのですが、人間の愛はあくまで自分のための愛で、儚く、虚しく、一時的です。親子の愛といえども、現実には児童虐待や家庭内暴力が存在するのですから、不完全な愛に過ぎないません。しかし、聖書の原文に使われるギリシャ語には、多様な「愛」があります。神の愛はアガペ、人間の愛はエロス、隣人愛はフィリアという風にです。
聖書は人間と隣人の関係に欠かせないものを「愛」とするのですが、それは神の愛であり、神ご自身が愛であるのです(4章8節)。今日お読みした16-21節にも、原文では12回もアガペが使われています。聖書は神が御子イエス・キリストを世に遣わしたこと、それだけでなく、愛する御子を人間の罪を赦すために死なせたことに、神の愛が現れていると語るのです。この神の愛だけが、人間を真の意味で生かすのです。
今日の箇所を理解するには4章7-11をまず読む必要があります。
7:愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。8:愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。9:神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。10:わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。11:愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
神の愛に留まる人は神の内に留まり、神もその人の内に留まってくださいます(16節)。そして、キリストが再び来られる時に、確信をもつことができます。(17節)。「確信」とは、恐れと不安から自由にされることです。逆に神の愛がその人の内に留まっていないと、恐れと不安に支配されるのです。その原因は、人間にどうすることもできない「死」にあります。聖書は「罪の報酬が死であり、人は生まれながらに神に逆らっているため、自分で罪を取り除くことはできない」とします。罪の報酬としての死は、単なる恐れと不安ではなく、永遠滅びに対する恐怖を引き起こします。
しかし「愛には、恐れがない」(18節)のです。なぜなら、キリストが罪を完全に取り除いてくださったからです。この方を信ずるなら罪の赦しと永遠の命が与えられます。神が内に留まってくださって、互いに愛し合う人は既に永遠の命に生きているので、死と滅びの恐れからも自由にされています。しかし、神を愛さない人はそれとは対照的な状態にあります。
「恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていない」からです。
「父が御子をお遣わしになった。そこに愛がある」と聖書が語るのは、イエスの派遣の目的で十字架によって、人間の罪がその報酬(罰)である死と滅びと取り除かれたからです。
「神を愛しているといいながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」(20節)という言葉はキリスト者に、教会における兄弟姉妹を受け入れ、赦し、愛しているかを問うています。いかなる人も偏りなく愛され、敵のためにさえ祈るイエス・キリストの愛に比べて、私たちの愛は、何とそこの浅い自己愛に過ぎないのかを認識しなければなりません。
しかしそんな私たちが主の前に立つ時に確信をもつことができるように、神は御子を人間としてお遣わしになったのです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」。ですから、互いに愛し合うことが神を愛していることの証しです。「神を愛する人は、兄弟をも愛するべきです。これが神から受けた掟です」。
さて、「愛には恐れがない」と言う時、一人のキリスト者を思い浮かべます。それは中村哲さんです。医師でありながらアフガニスタンではまず、水を得ることから始め、荒れ地を農地に変え、多くの人が働いて作物を得、自活することができるように、現地の人と苦楽を共した人です。アフガニスタンは内戦の激しい国です。言葉も文化も宗教も違う異国ですが中村先生は何も恐れず、病気やけがの原因となる飢餓や貧困の撲滅に取り組みました。そのため水確保することから始め、自らショベルカーを操作し、川から水を引き、荒れ地を農地に代えて作物を作ることで自活できるように尽くしたのです。水が命なのです。
不幸にも移動中に武装グループによって殺害されましたが、クリスチャンの医師として、神の愛に生き、現地の人々と共に汗を流した姿は、正に神の子であり、「愛には恐れがない」という聖書の言葉を体現していました。先生が証しした神の愛は多くの人に受け継がれ、実を結び、広がっていいきます。神の愛は、そのように一粒の種をとおして拡がりゆくのです。
神の言を聞き、生かされているキリスト者も、人を赦せない、または、受け入れられない、愛せないという現実に直面することがあります。しかしそんな時、イエス・キリストという見上げることができる方を持っているのです。また、心に浮かぶ聖書の言葉が多々あります。
特に、キリストが十字架にかけられながら、敵のために「父よ、彼らをお赦し下さい、何をしているか分からないのです」と祈られたことを思い起こす時、全ての敵意が消え去り、敵を赦す完全な愛があること、その愛によって自分が赦され、生かされていることを思うのです。そして、神の無限の愛が自分にも注がれ続けていることに気づかされるのです。
キリストの姿に「この方こそ真の神の子である」と告白せざるを得ません。十字架で死んで、三日目に復活されたキリストを神の子・救い主と信じる者に、永遠の命を与える方なのです。
隣人を真に愛すること知らない、できない人間だった私・自分が今や人を赦せるように、また愛せるように変えられるのは、ただイエス・キリストとの出会いによるのです。この神の愛に留まること、すなわち、「キリストのもの」とされることに勝る喜びはないのです。
皆さんにも、イエス・キリストを通して示された神の愛を知り、信じて、神の子とされることを心から願っています。
