牧師のメッセージ


秋の特別伝道礼拝


「わたしは死にたくない」

ヨハネによる福音書11章25-26節



2020年9月27日(日) 

日本キリスト教会函館相生教会 牧師 粂 広国


ふだんは死のことなど考える暇もなく、あわただしく過ぎて行くだけの毎日を過ごしておられた方も、コロナ感染症の拡大のせいで、在宅勤務となってワーク・スタイルが著しく変わったり、それどころか仕事を失って収入が無くなり、途方に暮れている方も少なくないと思います。この先どうなるかという不安の先に死も現実味を帯びて来ます。
不幸にしてコロナウイルスに感染してしまった人には死の危険がさらに現実のものとなり、「まだ死にたくない」「家族を養わなければならないので、今死ぬわけにはいかない」という切実な思いを抱いている方もおられると思います。末期のがんの方にとっては、「わたしは死にたくない」という思いを超えて「死なない命があるならそれを得たい」ということに一縷の望みを託すのではないでしょうか。
普段は意識せず、また考えたくもないけれど、死は誰にも避けて通れない出来事として、豊かな生活であれ、貧しい生活であれ、平等に訪れます。死が避けられない以上、それを早かれ遅かれ訪れる現実と冷静に受け止め、1日1日を真剣に生きていく他ないと覚悟して生きている人が殆どだと思います。死は、予期せず、容赦なく突然来る場合もあります。
死が恐怖と捉えられるのは、人はなぜ死ぬのか、その理由が分からないということに拠ります。死の理由が分かれば、恐怖も薄れ、人が生きる意味が見出せるのではいでしょうか。
それとは逆に「死にたい」と思っている人がいることも事実です。治る見込みのない病気や障害を抱え、日々何の生きがいも意味も見いだせない人や、生きること自体身体的・精神的・経済的に辛い人にとって死は、痛みや苦しみから解放される安楽の状態のように思えて、むしろ死ぬことを待ち望む境地に陥ることがあります。

 聖書には「わたしは死にたくない」と言う人にも「わたしは死にたい」と言う人にも、明確な答えを差し出す神の言葉が記されています。「わたしは死にたくない」と言う人には、死なない命が有るということを教え、「わたしは死にたい」と言う人には、人の命がその人自身のものではないことを教えています。
聖書では、人間の命は神からの賜物とされていて、自分の意志で生まれて来る人は、一人もいません。創世記を読むと、神は塵で造ったヒトに神の息(=霊)を吹き入れて、「人は生きる者になった」とされています。人が死ぬ時「息を引き取る」と言いますが、命を与えた神が人の息を「引き取る」のです。人は神から霊(=生命)を吹き入れられて初めて生きるのですが、塵から造られた人間の息を神が引き取ると、人間は生命力を失い、再び塵に帰るのです。このように人間の命も人生も生活の全て神のものであって、自分のものではないことが分かると、生きる長さ、死ぬ短さに囚われなくなります。

ヨハネによる福音書の11章25-26節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」というイエスの言葉は、ラザロという病気の家族をもっていたマルタという女性に対して語った言葉です。
マルタにはラザロという弟の他にマリアという妹もいる3人家族ですが、イエスの下に人を遣って弟のラザロの病気を癒してくださいと頼みました。ところがイエスは、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」と言われてなお二日同じ所に滞在されました。(11:1-6)。
その後イエスは弟子たちに「わたしたちの友ラザロは眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われましたので、弟子たちは「眠っているのであれば、助かるでしょう」とイエスの言葉どおりに受け止めました。しかし、その時既にラザロは死んでいたのを弟子たちは知らなかったのです。
ではイエスはなぜ死んだ人を「眠っている」などと言ったのでしょうか。それは、イエスがこれからなさろうとすることによって弟子たちがイエスを神の子であると信じるためです。それでイエスは「ラザロは死んだのだ」と弟子たちに言われただけでなく、「わたしがその場に居合わせなかったのはあなたがたにとってよかった」と言われたのです。そして「さあ、彼の所に行こう」と言って、ラザロの墓に向かわれました。
イエスが着くと、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていました(12節)。それでマルタはイエスに「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と言うものの「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と言いイエスに何かを期待をしていることが分ります。
それに対しイエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われます。マルタも「終わりの日の復活の時に復活することは信じております」と答えるのですが、「終わりの日の復活」は、当時のファリサイ派の人々の間で信じられていました。しかし、イエスの言われる「復活」は、将来ではなく、信じる人に今、起る事柄なのです。それでマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われます。この言葉には、イエス御自身が復活であること、イエスが命であること、イエスを信じる者は、死んでも生きるということ、そして、生きていて、イエスを信じる者はだれも、決して死なないというこの4つの事柄が含まれていて、それを全て信じるか否かが問われています。
ところで「わたしは○○である」というイエスの言葉はヨハネ福音書によく出てきます。「わたしは在る」というのは「神の名」ですから、イエスが、「わたしは○○」であると言われる時それはイエスが神であることを表しています。
「わたしは復活である」とは、イエスが神として、人を復活させる力をお持ちであるという意味です。「わたしは命である」とは、イエスが神として死なない命(永遠の命)与える方であるという意味です。「わたしを信じる者は死んでも生きる」は、イエスを神として信じる者は、死んでも復活させられ、神と共に永遠に生きるという意味です。「生きていてわたしを信じる者はだれも決して死なない」とは、イエスを神と信じる者は今、既に永遠の命に生き始めているという意味です。この後イエスは御自身の言葉が真実であることを表すために、実際にマルタたちの前で死んだはずのラザロを甦らせるのです。
このように「死なない命がある」ことを、イエス・キリストが保証しておられます。それは「永遠の命」と呼ばれます。十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に復活されたイエス御自身が「永遠の命」を保証されているので、死なない命を得たいと願う人は、このイエス・キリストの言葉を信じさえすればよいのです。
分厚い聖書を全部読まなくてもかまいません。旧・新約66巻の聖書の内、一つでもいいから読んでいただきたいのです。もし一つだけ読んで頂けるなら、ヨハネによる福音書だけでも読むことをお勧めします。それでも長いと言う方には、その中の唯一節だけ、ここだけは読むだけでなく、心に刻んで頂きたいと思います。それは3章16節の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この一節の中に聖書の福音の真髄が込められています。
「わたしは死にたくない」と言う人に、死なない命を与えることが聖書の目的なのです。永遠の命は、人間と成られた神の子イエスを救い主・キリストと信じることを通してか与えられないのです。これは世界中のクリスチャンがみな共通して信じている事柄です。
もちろん、「復活」も「永遠の命」も人には簡単に信じられないのは当然です。これらは、人間には絶対に不可能であり、常識を覆す事柄だからです。しかし「神には何でもできないことはない」という全知全能の神をクリスチャンは信じています。
今日初めて教会に来られた方も、これまで教会に来たことのある方もどうか「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。これは、復活されたイエスが「見ないでは信じない」と言っていた弟子にも現れて、語った言葉です。
復活も、永遠の命も、人間に対する神の愛によるものです。愛は観念的ではなく、具体的関係です。神は御子イエスをキリストとして世に遣わされたほどに人間を愛されました。この神を知り、信じて、神の愛の内に生きること、それは今できることです。人間の本性に従って生きることを止め、悔い改めて神の愛の中に生きること、それが、「死なない命に生きる」ということであり、「永遠の命に生きる」ということです。さあ共に、神の愛の内に生きようではありませんか。