秋の特別伝道礼拝
「自分のことで思い悩むな」
2020年11月1日(日)
今回取り上げた聖書の御言葉は、「だから言っておく」という前置きで始まっています。「だから」とは「こういう訳で」という意味で、24節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉を受け手、「所有」ということについて掘り下げています。
「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より大切ではないか」。
イエスは自分の教えが正しいからと言って、それを押しつけたりはしません。イエスの話を聞く弟子たちとその他の人々にまず考えさせ、「なるほど、そうだ」と納得させます。ここでも、人々が気づかない内に陥る誤りについて指摘しています。
なるほど「食べ物・飲み物」がなくては命が維持できないし、「着る物」がなければ体を壊し、健康を損ねます。しかし、食べ物・飲み物はあくまで命を保つための手段であって、目的にはなりません。また、衣服も体を保つための手段であって、目的にはなりません。しかし「何を食べようか・何を飲もうか」また「何を着ようか」と思い悩むことは明らかに、手段と目的を取り違えている状態であって、イエスはそれをただすのです。
そもそも先にイエスは弟子たちの求めに応じて、「主の祈り」を教えてくださいました。それは「異邦人のようにくどくど祈るな」と言われ(6:7)、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6:8)と言われた後で教えた必要最小限の短い祈りです。
命や体の維持に不可欠な「食物」と「衣類」が日毎に必要なことは天の父があなたがた以上に御存知であり、「日毎の糧をお与えください」と祈るだけで、十分に備えてくださるから「思い悩む」必要がないのです。それよりもずっと大切であり、目的とすべき命と体のことを心に留め、命と体の創造者である方にイエスは目を向けさせようとされるのです。「思い悩む」とはこのように、手段と目的を取り違えて、神が与える以上に得ようとする欲求の表れなのです。確かに、グルメとファッションは今でも人々の関心の中心をなしていますが、持てば持つほど欲しくなり欲望はエスカレートして行くのです。人間の欲望はきりがなく、それがやがて「貪り」に繋がって行き、欲しくなる余り、手に入れようとして盗んだり、人を殺めて、手に入れようとする罪に繋がって行く危険をはらむのです。
人は神が与えて下さるもので満足すべきです。それでイエスは人間以外の被造物である「空の鳥」に目を向けさせます。鳥は播くことも刈ることもしないのに、天の父は彼らを養ってくださるではないかと。子どもでも分る論理です。また「野の花」にも目を向けさせます。花は鳥のように餌を取ることさえできないのに、天の父は草花を装ってくださる。それは栄華を極めたソロモンですら及ばないくらいの華やかさではないかと。今日は咲いても明日は枯れて炉に投げ込まれる草花さえ、神はこのように装ってくださるのだから、ましてや天の父はあなたがたに良くしてくださる。人間自身が命や体を大事にする以上に天の父は配慮してくださる。この愛と慈しみにあふれた神を忘れて、自分自身でより良きものを得ようとすることは愚かなことです。
25節以下のイエスの言葉は、その前に語られた「人は神と富とに仕えることはできない」ということを裏付ける諭しであるといえます。しかしイエスは更にこの諭しと譬えを通して、「それでは命と体に本当に必要なものは何か」ということに目を向けさせます。そこに、イエスの教えようとされるポイントがあるからです。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。「何よりもまず」ですから、飲食物や衣服を求めることに優先して、「神の国と神の義」を求めなければならないというのです。私たちはこのように言われてもすぐにピンと来ないかもしれませんが、イエスの話を聞く弟子たちや人々には、この神の国と神の義が私たちよりも少しはリアリティーをもって、捉えられるのです。なぜなら、イエスが人々を癒し、悪霊を追い出すことで、神の国(=神の支配)は地上にもたらされつつありましたし、律法ではなく愛でもって神の義を行うイエスによって人々は、神の義に対する正しい理解を得始めていたからです。
イエスによって神の国(=神の支配)の内に入れられることは、永遠の命に生きることですから、「命」ということに関わり、神の義は、イエスの十字架の死と復活による救いに表されるのですから、「体」というものに関わるのです。最も身落としてはならない大事な点は、「神の国も神の義も、イエス・キリストという方以外の存在からは与えられない」ということです。
従って、私たち聖書の言葉に聞く者たちも、「神の国と神の義を求める」ならば、イエス・キリストを知る以外にないのです。またイエス・キリストによらねば「神の国も神の義」も得られないのです。私たちが毎週捧げている礼拝の目的も正にこの点にあります。食物・衣服が毎日必要である以上に、礼拝において、聖書においてイエスに出会い、「あなたこそ神の子、救い主・キリストです」と信じ、告白し、主のみ言葉に聞き従って歩むのでなければ、神の支配の内に生きることも、神の義である救いに与ることもできないのです。
さて、イエスは最後に「明日のことまで思い悩むな」と付け加えます。人間は、明日のこと即ち将来という「時間」に関しても思い煩うのです。しかし、時間を支配しているのは、人間ではなく、天の父です。イエスは「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)と言われました。
確かに人は少しでも長生きしたいと願い、医療体制が整えればその国の平均寿命は長くなります。現在では寿命を延ばすことが可能のように思われますが、イエスがここで言おうとされているのは、明日のことも食物や衣服と同様に、天の父が配慮してくださるから思い悩む必要はないということです。
しかしそのような意味だけでなく、むしろ「時間は神の御計画の内にあることで、人の生涯も、神がその御心に沿ってそれぞれの人に御計画をお持ちなので、神に委ねなさい」という意味を含んでいます。
人は思い悩むことで、気が付かない内に、神が配慮し、計画している領域を犯しているのです。イエスはそれを戒め、人が自分自身を心配する以上に、創造者である神が、配慮して下さっているから、神に委ねなければならないことを教えています。そして、神の深い配慮の表れが、イエスをキリストとして世に送ったことであり、御子によって、神の国と神の義、すなわち神の支配と救いの御業を完成してくださるのです。この神の大いなる憐れみと慈しみの前に、人間が自分自身のことだけを思い煩うのは愚かなことです。それは神を知らない人のすることであり、神を信じる人は、何事も思い悩みに囚われてはならないのです。
むしろ、世の諸々の思い悩みとそれに伴うストレスから解放され、教会が唯真の神のみを礼拝し、神の言葉に聞き従って行くところに、神の支配の完成することを待ち望んで歩む点に、神の民の宣教と証しの姿が有るのです。イエスが弟子たちと共に歩まれたのは、このような真の神の民を創造するためであります。教会はこの使徒的信仰を受け継いで歩むのです。