牧師のメッセージ


礼拝説教 


「欠けているもの一つ   
マルコによる福音書101722節   


2017528()

特別伝道礼拝説教
函館相生教会牧師

 久野 牧



教会に来るきっかけ、礼拝に出るようになるきっかけは、人さまざまです。友人に誘われてとか、親の祈りに導かれてということもありますし、何かの出来事をとおしてキリストの愛というものを知らされて、それをもっと知ろうとすることが始まりである場合もあります。あるいは、困難な人々や苦しみの中にある人々への奉仕の中で、教会の存在を知らされるということもあるでしょう。遺愛学院の中・高生の皆さんのように、学校の勧めで教会に行き始めることもあります。

 さらには、自分自身の魂の葛藤や、精神的苦悩を通じて、キリストの存在を知り、キリストから力を得ようとして、教会の扉をたたくということもあります。

 どのあり方が最も良いということではありません。最終的にイエス・キリストに出会い、人間というものが何であるかを知らされ、そしてキリストが差し出そうとしておられる真の救い、真の命を確信できるようになれば、それは教会の門をくぐったことに意味があった、ということになるのです。そのような人々が多く生れることを願いながら、地上の教会は、いわゆる「伝道」の働きを続けています。



 今日、わたしたちがご一緒に考えようとしている聖書の中の物語は、小見出しに「金持ちの男」と記されているように、ある金持ちの男の人の物語です。この人は、他の福音書(マタイやルカ)によれば、青年であり、エルサレム議会の議員でもあったということが分かります。言うなれば、「功なり名を遂げた」少数の人々の中の一人です。今日の言葉でいえば、エリートであり、あるいは勝ち組に属する人である、ということになります。

彼は、聖書の中で、主のもとにやってくる他の多くの人々のようではありませんでした。つまり、病で苦しんだり、悪霊に取りつかれて錯乱状態にあって救いを求める、というのではなかったのです。彼は、何かの問題を内面に抱え、その解決を求めて、自ら主イエスのもとにやってきているのです。しかもその時の様子は、走り寄り、うやうやしくひざまずいて、主イエスに真剣に尋ねています。主イエスに真剣に何かを求めていることが明らかです。

彼は、この世的にはある程度、いや人並み以上に、「自己実現」を成し遂げていると言って良いでしょう。しかしそれに満足せずというか、そのような状況の中でも、自分には何かが足りないと感じているのです。その足りない「何か」は、この世的次元のことではなく、それを超えた精神的あるいは霊的次元に属することであると言って良いでしょう。この男は、それを「永遠の命」と言い表しています。永遠の命とは、聖書においては、いつまでも死なない命のことではなく、真の命のことであり、さらに言い換えれば、救いということになるでしょう。人として、救いに入れられること、つまり、死の不安や恐怖を乗り越えて、神のもとに憩う平安を得ることです。それを得たいと彼は切に願っています。

 富も栄誉も地位も手にした、しかし、それが彼の求めている永遠の命の保証とはならないことを、彼は感じ取っているのです。そういった意味では、この人は、ある種の良い感覚を持っている人、ということができるでしょう。しかも永遠の命を「受け継ぐ」と言っていることは、この命は、人の手や努力や働きだけではどうにもならず、ある方から「受け取る」という方法でしか自分のものにはならない、ということに気がついてもいるのです。そして、その命を人に与えることができる方は、主イエス・キリスト以外にはおられないと確信して、彼は急いで主のもとにやってきています。

 彼は何らかの機会に、主イエスについて知り、その話や奇跡の業にも触れることがあったのでしょう。その経験の中から、他の教師と呼ばれる者たちの誰も与えることができなかった永遠の命を、この方こそ与えることができる唯一の教師であると確信して、今、主イエスのもとにやってきて、その前にひれ伏しているのです。彼の直観は当たっています。

 彼と主イエスとの間にいくつかの会話が交わされたのですが、詳細は省略して、中心となることに目を向けてみましょう。主は、御自分に対して「善い先生」と言って、他の教師とよばれる者たちと比べて、格段に善い先生、善い教師として主イエスを認めているこの男に、次のように言われました。それは、「真に『善い』と言われるお方は、神以外にはおられない」、ということです。それによって彼の眼を神に向けさせています。主は彼の考えを地上的なことから、別の次元に導いて行こうとしておられるのです。人間的業績の積み重ねの上に、さらに善いものを積み上げようとしている彼に、別の次元への飛躍を求めておられるのです。永遠の命とは、人間的事柄の延長線上にあるものではない、ということを教えておられます。永遠の命を問うことは、真の生き方を問うことである、ということに気がついていない彼に、それを気づかせようとしておられます。



 その時主は、その飛躍が起こるために、彼に必要なこととして、彼がこれまで蓄えてきた財産、所有している宝を売り払って、そのお金を貧しい人に施しなさい、と命じられるのです。彼には思いもよらない主からの求めでした。これまで積み重ねて来たものの上に何かをさらに積み上げれば、永遠の命に達すると考えていた彼は、逆に今、過去の積み重ねを否定することを求められているのです。捨て去ることによって、新しくすがるものを見出すのです。そのすがる相手が神です。その神との結びつき、神との関係の中で生きようとすることが大事なことなのだ、と主は教えておられるのです。永遠の命を「モノ」と考えていた男は、主が言われることが理解できず、また承服できるものでもありませんでした。

 命が生まれることは、ほとんどの命、生命体について言えることですが、それまでの世界から飛び出すことによって、可能となります。前の世界に留まっていては、新しい命は生まれ出ません。すなわち、新しい生き方は始まりません。この男にとって前の世界とは、富との関係の中での生です。その充実、その高揚を考えていた彼は、そうではなくて、この世の富との断絶によって始まる新しい関係の中での命を示されています。そして主は続いて、「それから、わたしに従いなさい」と言っておられます。それによって、永遠の命に至る順序が示されています。つまり過去を遮断することによって、真の命、真の救いへと人を導くことのできるお方との関係へと引き上げられていくのです。



 主は別のところで、次のように言っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエス・キリストを信じることである」と(ヨハネ17:3)。永遠の命とは、抽象的な何かではなく、具体的な関係のこと、すなわち、わたしたちが、唯一の神と、神の独り子イエス・キリストに結びつくことである、と言われます。神が永遠であり、御子イエス・キリストも新しい命に生きておられる方であられますから、この方と結びつく者も「永遠」と呼ばれる領域に属するものとされるのです。それが永遠の命であり、そうされることが、<救い>といわれるものです。神がそのように取り扱ってくださるのです。人はそのことを目指すものとして造られているのです。それがわたしたちにとって現実となるためには、その関係づくりの妨げとなっているものを断たなければなりません。この男は、そのことが今、主から求められているのです。

 

 人にとって豊かさは恵みとして働くこともあれば、致命的な欠陥をもたらすこともあります。つまり、富が、他者のことを分からなくさせたり、独りよがりの生き方を生み出したり、自己中心的な人間にさせたりするのです。しかし、豊かさを捨てることによって生じた貧しさの中から、人にとって最も大切なものが見えてくるようになるのです。彼にとって「欠けているもの」とは、多くを持っていることから生じる他者への関心です。彼には、他者が視野に入ってくる心の場がないのです。その欠けを満たすためには、持っているものを手放すこと、捨てることをしなければなりません。それはすなわち、心の断捨離です。それは彼にとって最も苦しいことでしょう。しかし、それは生みの苦しみなのです。

 そのようにして主イエスに従うことによって、彼の求めていることが与えられるに違いありません。主イエスの彼への求めの強調点は、何も持たない者として主に従うことにあります。多くの物を所有したままでは、そちらに気を取られてしまって、真の服従はできないのです。身軽にして従い始めることによって、捨てたものよりもはるかに大きなもの、彼が本来求めていたものがもたらされるのです。それが「受け継ぐ」ということです。主はその道を示しておられます。

 主は誰に対しても、「すべての財産を捨てて従ってきなさい」と命じられるのではありません。ただひとこと、「わたしについてきなさい」と命じられる場合もあります。しかし、この男には、彼の新しい生き方の障害となっているものが富にあることを見られた主は、それを捨てることを求められます。そのようにして自己を神に全面的に明け渡すことによって、彼は新しくされるのです。



 このように思いもかけないことを告げられた彼は、結局どうしたでしょうか。「その人はこの言葉に気を落として、悲しみながら立ち去った」と記されています。彼は、富を捨てることができず、主を捨て、神を捨てたというべきでしょう。自分で決断して、主イエスのもとにやって来たのに、さらにその先の決断ができませんでした。彼は新しい生への飛躍の機会を逃してしまったのです。彼は、主のもとから悲しみながら立ち去りましたが、それ以上に、主イエスご自身が彼のことを悲しまれたことでしょう。

 わたしどもにとっても、主イエスに従うことを妨げるいくつかのものがあるに違いありません。それは、学歴であったり、過去のキャリアであったり、地位であったりします。また、財産、家柄、家族関係、自分なりの宗教観や救いについての考えなどが、手放せないものとしてあります。それらは、広い意味での富と言って良いでしょう。それにより頼んでいる限り、永遠の命、すなわち、真の命、神の国に通じる命を自分のものにすることはできないのです。多く持っていることが、最も大切なものを手にすることにとって妨げとなります。それらをうしろにおいて、決断的に主の招きに応え、主と共に生き始めるとき、新しい命が生まれ出てきます。

 多くの人に、主が言われる「自分に欠けているもの」、すなわち自分の心を満たしているこの世的なものへの執着を捨て去る決断、というものがあります。その人々が、自分の心を満たしている種々の「もの」を捨て去る決断をし、事実それを実行し、主イエスに従い始めて主のものとされ、神の約束である永遠の命を受け継ぐ者となっていただきたい、と心から願います。今の時代と世界は、そのようにして、主イエスに従って生きる人を必要としているのです。それらの人によって世界が満たされるとき、世界はきっと変わるに違いありません。




「羊飼いたちのクリスマス」
ルカによる福音書2章8―20節
  2016年12月18()
本キリスト教会 森伝道所  クリスマス礼拝説教
 

日本キリスト教会函館相生教会
   牧師 久野 牧



 今日は、ルカによる福音書のクリスマス物語に注目してみよう。


 わたしたちの救い主イエス・キリストは、エルサレムという都から12~13キロ離れた、ベツレヘムという小さな村でお生まれになった。イエスさまの誕生の知らせを、天使から最初に聞いたのは、その夜、エルサレムの近くで野宿していた羊飼いたちであった。それは彼らの仕事の最中であった。

どうして、天使たちは、最初に羊飼いたちに、救い主の誕生を知らせたのか、ということを多くの人たちは考えた。羊飼いたちよりも、もっと立派な人がいたのではないか、と考える人もいる。

マタイによる福音書では、最初にイエスさまのところに行ったのは、遠い外国から来た三人の占星術の学者たち(博士たち)であった。エルサレムには、王もいたし、偉い聖書の学者たちや神殿で働く祭司たちもいた。しかし、彼らのなかの誰一人として、イエスさまのところに行った者はいなかった。それなのに、聖書の勉強をしていたわけではない羊飼いたちが、最初にイエスさまの所に行ったとは、とても不思議な気がする。そのことについて、考えてみよう。

何よりも、聖書的な背景として、羊飼いは、旧約聖書・新約聖書のいずれにおいても、主なる神を表す比喩として用いられていることを踏まえておきたい。旧約聖書では詩編23編に、「主は羊飼い、わたしにはなにも欠けることはない」と、主なる神のことが美しく羊飼いにたとえられている。また新約聖書では、主イエスがご自身のことを「わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ10:11)というように、羊飼いにたとえておられる。聖書の世界において、羊飼いは、主なる神を指し示す代表的存在なのである。

こうしたことを背景として、神は天使たちを最初に羊飼いたちのもとに送り、救い主の誕生を知らせることによって、今お生まれになられた方は、人間にとっての羊飼いであり、魂を命へと導く牧者であることを示そうとしておられる、と考えることができる。

その羊飼いたちの現実はいかなるものであったのだろうか。

まず羊飼いたちは、どのような仕事をしていたかを考えてみよう。昼は多くの羊を連れて、草や水のあるところを探して移動する。夜になると安全なところを探して、羊たちを休ませ、自分たちも野宿をしながら、交代で羊たちを見張る。毎日そういうことの繰り返しであった。夜起きているのは、羊飼いたちだけであった。神さまの使いは、そのようにつらい仕事をしている羊飼いたちに目をとめて、彼らの所に現れ、イエスさまの誕生の知らせを告げたのである。

また、羊飼いたちは、イエスさまの時代は、家畜や動物たちを相手にする仕事だということで、人々は彼らを軽蔑していた。彼らは、家畜のにおいがしていたのかもしれない。また、神殿での礼拝のような宗教的集会に出ることもほとんどできなかったために、社会的にも低い地位にあった。羊飼いたちは、決して罪人に分類される人々ではなかったが、社会の中で尊敬されている人たちではなかった。

そのような羊飼いたちに神さまは目を留めて、神ご自身の使いを最初に彼らのもとに送られ、次のように言わせた、「きょう、ダビデの町で、救い主がお生まれになった」と。羊飼いたちは神さまにとっては、少しも卑しい者ではなく、身分の低い者でもなく、むしろ、神さまの大事な働きをする大切な人たちであった。神さまが人をご覧になるとき、この世の人々が見るのとは異なる目をもって、ご覧になるのである。神は御子の誕生のときから、弱い者、貧しい者のそばにおられるお方であることが分かる。

神は、羊飼いたちが持っているいろんな良い点をご存知であった。宗教改革者カルヴァンも、羊飼いたちのさまざまな良さに注目せよ、と言っている。彼らの良い点は、天使からの知らせを聞いたときの彼らの反応の中に表されている。神はその良い点を見抜いておられた。

その一つは、彼らはとても素直であった、ということである。天使たちが彼らに話して聞かせることに対して、彼らは少しも疑うことなく、素直に聞き従っている。つまり、すぐにベツレヘムに出かけているのである。神の前での尊さの一つは、素直である、ということである。マリアもヨセフも、神さまの言葉に素直であったことを思い出すことができる。

次に、羊飼いたちは、天使の話を聞いた後、すぐに立ち上がって、急いでベツレヘムに向かって行った。「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」、と彼らは言っている。決断が早い。そのことも神さまに対して、大事なことである。

そしてついに彼らは初めて行ったベツレヘムで、乳飲み子のイエスさまを探し当てた。ということは、彼らは、一生懸命に、イエスさまの生まれた場所はどこかと探したのである。そして宿屋の家畜小屋を探し当てた。彼らは熱心であった。これも神さまが喜ばれることである。あの三人の学者たちも、熱心にイエスさまを求めて旅をしてきて、願いどおりイエスさまに出会ったことをわたしたちは知っている。

最後に、もう一つ注目すると、羊飼いたちは、自分たちが見聞きしたこと、すなわち、天使が告げたとおり、救い主イエスさまが、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉桶に寝かせてあること、それを自分たちの目で確かめたことを、人々に知らせた。彼らは、この大事なことを自分たちだけで独り占めにせず、多くの人たちにも知らせて、喜びを分かち合おうとしたのである。彼らの誠実な姿が、そこに現されている。神さまは、このことも大事なこととされるのである。

彼らに高度の聖書に関する知識があった訳ではない。自分たちこそ誰よりも先に救い主の知らせを聞く資格があるなどと考えていた訳でもない。彼らはただ黙々と、日ごとの務めを果たしていたのである。そのような彼らを神は見ておられた。そして彼らに御子の誕生を最初に知らせられた。

神さまの前で、素直であること、決断的であること、熱心であること、そして誠実であること、羊飼いたちはそのような良い点を持っていた。神さまはそれをご存知であった。だから、誰よりも先に、羊飼いたちに、神さまのひとり子の誕生を知らせられたのである。

さて、イエスさまのところに行った羊飼いたちは、お祝いに何を捧げたであろうか。あの三人の学者たちは、黄金、乳香、没薬といった、貴重な宝ものを捧げたことは、みんな知っている。学者たちはちゃんと捧げものを用意して出かけた。しかし、羊飼いたちは、実は何も手に持っていなかった。羊の番をしている羊飼いたちが日ごろ持っている物といえば、獣を追い払うための杖とか石を入れる袋といった道具だけであった。彼らは、イエスさまの前で、目に見えるものは何も捧げることができなかった。彼らは手ぶらで行くほかなかったのである。

しかし、彼らは目に見えない大事なものを、イエスさまに捧げた。それは、彼らの心である。急いで駆けつけ、拝み、賛美をするといった最も大切な心をイエスさまに、そして神さまに捧げたのである。

神さまの前に出るとき、持ち物とか服装といったものが大事なのではなくて、心から神さまを拝み、賛美し、感謝する心が最も大事なのである。神さまが、何も持っていない羊飼いたちを最初の礼拝者として選ばれたのは、そのことを示すためであったのだ。神さまは次のように言っておられる、「あなたがたがわたしの前に出るとき、何も持たなくて良い、ただわたしを礼拝する心だけを持ってきて欲しい」と。

さて、これらのことを知らされたわたしたちは、どうしたら良いのであろうか。最後にわたしたちのことについて考えてみよう。なによりも羊飼いたちに倣って、神さまの前で素直であり、いつも神さまのご指示に良い決断を持って従い、そして熱心に、誠実に神さまの御用をしようと心がけていること、それが大事なことである。

羊飼いたちは、野宿しているときに、つまり思いがけないときに、神さまからの声がかかった。モーセは、羊の群れを飼っているときに、神によって召された。ペトロとアンデレは、湖に網を打っているときに、主イエスによって「わたしに従いなさい」と招かれた。わたしたちに対しても、神さまは、思いがけないときに声を掛けられて、「わたしのために仕事をして欲しい」、といわれるかもしれない。そのとき、「はい、わたしは神さまの言われるとおりにします」とお答えできるならば、なんと素晴らしいことではないか。日常の中で、日常を突き破るかたちで、神はわたしたちの生に突入されることがある。それは決断の時であり、新しい生への招きの時である。

旧約聖書のミカ書に次の言葉がある。

「主が何をお前に求めておられるか。

 正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、

 これである」(6:8)

これは神さまにお答えする心を示したものである。いつも神さまと共に歩もうとすること、これが,神さまがわたしたちに求めておられることである。このように神さまへの心を、一人ひとりがしっかりと持つ時、それがクリスマスである。

マリアもヨセフも羊飼いたちも、神さまの命令と委託に素直に、「はい」と言って、従った。わたしたちも、その人たちにならって、神さまの「このようにしなさい」という命令や、「このようにしてくれ」と言われる要求に、素直に、決断的に、そして熱心にお応えする者でありたい。「神さま、このクリスマスから、わたしたちに新しい心を与えて、神さまと共に歩むことを始めさせてください」、一人ひとりがそのように祈ろうではないか。神はわたしたちを用いようとしておられるのである。

カルヴァンは、「クリスマスは従順を学ぶ時である」、と言っている。この従順が、わたしたちの世界において回復されるとき、世界は変わるであろう。クリスマスの出来事から示されるこの祈りの課題に、誠実に取り組むこれからの一年でありたい。
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日本キリスト教会 函館相生教会
             牧師 久野


  2016年5月29日(日)
  特別伝道礼拝説教

「仕えるという生き方」
マタイによる福音書202028節)

人々の生き方は多種多様です。人の性格が多種多様であるとともに、生き方も百人百様です。生き方の多様性とは、仕事とか職業といった、電話帳の職業別のように区分することができるレベルの多様性のことではありません。もっと根源的なレベルでの違いです。つまり、何のために生きるか、自分の存在や命を、何を大切なこととして用いるか、というレベルでのことを、今、問題にしています。
  したがって、今考えようとしている生き方は、進路指導とか職業選択に関することではなくて、時に哲学的・思想的に深められたり、宗教的に考えなければならない要素も入ってきます。それは、人間とは異なる次元の存在(神的なもの)との関わりの中で、方向づけられることもあり得るものです。この世の競争原理や功績主義などによって動かされるものとは異なるレベルで考えなければならない生き方というものがあるのです。人の間では、その点においても多様性があるのです。

わたしたちは今、そうしたレベルにおけるさまざまな生き方を比較検討するのではなくて、聖書において示される生き方に絞って考えてみたいと思います。それはすなわち、主イエス・キリストが示してくださる生き方を知ること、あるいは主イエスご自身の生き方を知るということです。そのとき、生き方についての主イエスの教えの代表的なものとして、今日の聖書箇所、特に2026節~28節によって示されるものに目を向けることが求められます。そこには、主イエス・キリストご自身の生き方が何であったかが、はっきりと示されているからです。

まず 28節に注目してみましょう。そこで語られている「人の子」とは、主イエス・キリストご自身のことです。主はしばしばご自身のことを、「人の子」として云い表されました。その主イエスの生き方が、二つのことで述べられています。
一つは、主は、「仕えられるためではなく、仕えるためにこの世に来た」ということ、そして二つめは、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために、この世に来た」ということです。

第一の教えの中にある、「人々に仕えられるために来たのではない」とはどういうことでしょうか。「人によって仕えられる」とは、例えば、人々を輩下におき、自分は最高位に立って、ただ、指示や命令を出す、という生き方です。あるいは、自分の地位や栄誉や利益のためには、人を押しのけることもするし、また、どんなことでもする、というあり方です。さらには、他者(他人)は、共に生きる存在というよりも、押しのけるべきもの、さらには自分のために利用してもよいものといった生き方で生きていくあり方です。
 そうした生き方を、主イエスは、「人々によって仕えられる」という言葉で言い表 しておられ
 ます。それは極端に云えば、他者が手段化されている生き方です。主は、ご自身はそのような
 生き方をするためにこの世に来たのではない、その逆である、と云っておられます。その逆と
 は、「人に仕える」生き方です。それについては、あとで深く考えたいと思います。




第二の「多くの人々の身代金として自分の命を献げる」とはどういうことでしょうか。これはキリスト教の中心的な思想である、主イエスの十字架の死のことです。神は旧約以来、「人は罪の中に陥り、神への反逆の中にある、それゆえに、正義である神の裁きを受けなければならない」、と教え続けて来られました。神の御子キリストは、そのような神の裁きをすべての人が受けることがないようにと、この世に遣わされたお方であり、ご自身を神の前に差し出して、神の怒り(裁き)を、その身に負われたのです。神の裁きの方向を、人間からご自身へ転換されたのです。罪ある人間になり代わって、罪人の代理として、神の裁きを受けられたのです。それが「多くの人の身代金として、自分の命を献げる」ということの意味です。イエス・キリストの犠牲としての死のことが言い表されています。

ここで語られているのは、キリスト教の中心思想であるイエス・キリストの十字架の死によるすべての人の救い(贖い)ということです。そのことは、キリスト教信仰において最も大切なことですが、ここでさらに深めることはいたしません。この主イエスの死は、「他者が生きるために自分の命を犠牲にする」という性格のものです。主イエスの死によって、罪人の救いの道が開かれました。このわたしの罪の赦しのために、主は御自身の命を投げ出されました。人によって仕えられるのではなくて、人に仕えるあり方の究極の姿がここにあります。主は、それに倣う生き方を、わたしたちにも求めておられるのです。

主イエスはこのように、ご自分の生き方の本質を、「仕える」ということと、「身代金とし献げる」ということとして示されました。その二つは別々のことではなく、根底において通じ合っている一つのことです。

主イエスは弟子たちに、「偉くなりたい者」、「一番上になりたい者」は、この主イエスの生き方に倣え、と云われています。主が云われる「偉い」とか「一番上になる」とは、その言葉に何か引っかかるものを感じる方もおられるでしょうが、これは要するに「大きくなる」ということです。それは神との関係の中で云われていることであって、別の表現をすれば、「神が最も喜ばれる生き方、神が最も価値高いものとして評価してくださる生き方」と言い換えてもよいものです。それは、主に倣って人に仕える生き方です。人のために自分をささげ、人の命のために自分の命を用いる、あるいは他者のために自分の命を削ることさえする生き方、それを主イエスは今、弟子たちに教えておられるのです。

ここに、人の生き方の価値をめぐるキリスト教における逆転があります。神が介在されるとき、あるいは神との関係で自分の存在を考えるとき、この世の価値基準とは異なったものが生じてくるのです。神の眼差しの中で自分の生き方を考えるときに、最も輝いているものは何であるかが、以前とは違って見えてくるのです。わたしたちには、永遠の中でのこの世の数十年の時の瞬間的な輝きを求めて生きるか、それとも永遠なる神の前で、自分のこの世での生と存在を置づけて考えるか、つねにそのことが問われています。

主イエスがこの教えをされたときの弟子たちの様子は、如何なるものであったのでしょうか。マタイによる福音書では2020節以下に記されているように、主イエスの弟子であるゼベダイの子たちであるヤコブとヨハネの母が、その息子たちと一緒に主の前に現れて、一つの願い事をしています。それは、神の国が完成して、主イエスが王位につかれたときには、この二人の息子が、主の右と左に座れるようにしてほしいというものです。つまり、人間として最も栄誉ある地位につかせてほしい、と願い出ているのです。他の人を出し抜いて、トップに躍り出ようとする野心や欲望を恥ずかしげもなく主イエス の前であらわにしています。この母親と息子たちは、人生の真の測りを失っています。「そのことを聞いた他の弟子たちが腹を立てた」(24)という記事から、他の弟子たちも同じようなことを考えていたことが想像されます。

 マルコによる福音書にも同じような物語が記されていますが(10)、そこでは、弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合っていたと記されています。これもある種の出世にまつわる弟子たちの様子です。
 そうした状況下で、主イエスはこの教えをなさったのです。主は弟子たちに、この世で大きくなろうとするよりも小さくなれ、上に立とうとするよりも下に向かえと教えておられるのです。それが「仕える」という在り方です。多くの人が向かう方向とは異なる方向を、主は指し示しておられます。

最後に、それでは、「仕える」とはどういうことかを改めて考えてみたいと思います。主は「仕える者となれ」ということの言い換えとして、「僕(しもべ)になりなさい」とも云っておられます(27)。僕とは奴隷のことです。主人の食事や身のまわりの世話をしたり、足を洗ったりするものです。この「僕になれ」ということで主イエスが語ろうとしておられることは、他の人の命や生きることの助けと維持のために、自分を差し出しなさい、ということです。主は、他者と共に生きようとすること、他者のために自分を用いようとすることを、「僕となれ」ということによって云い表しておられます。それが神に従う者の新しい生き方です。
特に今日、そのように仕える者が現れることを待っている人々が多くいます。それを必要としている人々がいます。多くの人には聞こえないけれども、そうした叫びをあげている人がいます。本人がその願いを明らかにすることができないとき、他の人が代わりになって、仕える者を求めている場合があります。その声や叫びを聞き取る感受性を身につけることが、わたしたちには求められています。 

 いわゆる少数者に属しているゆえに、特別な苦悩を抱えている人々、差別の対象とされて、痛みの中で日々を生きている人々、自分の力ではどうすることもできない天災・人災の被害の中で、狂おしい人生を押しつけられている人々など、仕える相手は多くいます。逆に云えば「仕えられることを必要としている人々」は、わたしたちの周囲に数多くいるのです。それは聖書の別の言葉で云えば、「わたしの隣人」です。その人の重荷を担うこと、重荷を分かち合おうとすること、それが仕えることの一つかたちです。

 主イエスは、ご自身を模範、あるいは手本とした生き方へと、わたしたちを招いておられます。「仕える者になりなさい」とは、きびしい命令というよりも、この世の価値基準や競争原理から人々を解き放つ解放の言葉、福音である、とさえ云ってよいのです。主はそのような新しい生へとわたしたちを招いておられます。主イエスは、「他の人が生きるならば、わたしも生きる」という道を指し示してくださっています。僕となられた主イエス・キリストに倣って、わたしたちにもそうした生き方が可能とされているのです。


 教会の存在自体が、そしてそこに属するわたしたち一人ひとりの生き方が、他の人の救いと命のためのものとして、主によって用いられる道が備えられました。そのことを感謝しつつ、教会から遣わされたところで、主の僕として、主の招きに応じて生きていきたいと思います。主イエスがわたしたち一人ひとりのために、命を投げ出して仕えてくださったのですから、わたしたちも主に倣って生きるものでありたいとこころから願います。







         2016年3月4日(金)
2016年世界祈祷日函館地区集会




「子どもを受けいれなさい.
            そしてわたしをも



1.今日の子どもを取り囲む状況


今日は、子どもの受難の時代と言われます。

日本においては、親による虐待、育児放棄、貧困の問題、いじめ、差別等、悲惨な状況があります。世界規模では、戦争や紛争、それに伴う難民、飢餓、病気など、人類が抱えている問題は、あまりにも多くあります。そして、それらの問題は、何よりも先に弱い所に最も顕著に表れ出てきます。すなわち、幼な児において、世界のひずみが端的に表れ出るのです。
ちょうど、風船に空気を入れ続けていくと、あるいは外から力を加えていくと、弱い部分が破れるように、保護されるべき弱さを抱えている幼いいのちに、世界の抱える問題が集中的、暴力的に表れ出てきます。だからこそ、小さないのち、小さな存在が守られなければならないのです。それらが護られている社会は、問題を抱えていながら、なお健全さを保っているとも言えるでしょう。いわゆる子どもは、親世代の者たちにとっては、何かの手段ではなくて、純粋に、愛や保護や受容の対象なのです。
このことは、少しばかり丁寧に考えれば、分かるはずのことです。しかしそうしたあり方が今、薄れてしまっていると言わざるを得ません。そこにこの時代の病があります。

2.聖書における子ども

それでは、聖書では、子どもについてどのように教えているでしょうか。多くの教えがありますが、今日は、式文の「聖書の学び」の20ページから21ページにおいて取り上げられている、マルコによる福音書の二つの箇所を考えてみたいと思います。この二つは同じようでありながら、異なった強調点を持つものですから、注意しながら読まなければなりません。先に10章の方を考えてみましょう。

1) マルコ福音書1013~16   <模範>としての子ども

「神の国はこのような者たちのものである。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(14~15)。
ここでの中心は、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこ(の国)に入ることができない」です。それは、「子どもが教え示されたままに、神の国を受け入れるように、あなたがたも神の国を主の教えのままに受け入れるものであれ」ということです。ここでは、子どもは、主格的に扱われ、彼らのあり方が、人が倣うべき模範として挙げられているのです。つまり、子どもが、人が神の国を受け入れる時の模範(モデル)とされているのです。

子どもは、依存的な存在であり、自分が生きていく上で必要な物を与えられたとき、それを素直に喜んで受け入れます。そのような子どもの特質は、無力性と絶対的依存性です。無力であるゆえに、他者に依存して生きていくほかないのが子どもたちです。

主は、そうした子どもの特質を踏まえながら、すなわち、無力ゆえに他者(大人たち)からの助けをそのままに受け止める子どものあり方に倣って、あなた方も自分の無力性を自覚して、神に頼って生きるほかないものとして、神の国を受け入れなさい、神のみ心を自分の心とする生き方をしなさい、と教えておられるのです。

なぜなら、すべての人間もまた、神の前にあっては、子どものように無一物に等しく、誇るべきものを何一つ持っていない存在だからです。そのような者たちに差し出される神の恵み(神の国)を、全面的な信頼をもって受け止めることが、人にふさわしいことである、と教えておられます。

式文7頁にある少女Ⅲの「子どもたちから学ばせてください」という祈りの中心は、そこにあります。わたしたちは子どもから、「受け入れる」ということを学ぶのです。

もう一つの聖書箇所を見てみましょう。

2 マルコ福音書933~37節   <しるし>(象徴)としての子ども

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37)。

ここでは、子どもは、主格的にではなく、目的格的に扱われています。そして、「子どもを受け入れること」と「主イエス(さらに神)を受け入れること」とが、同格に位置づけられていることが分かります。この場合の「子ども」とは、地位も財産も栄誉も持っておらず、誇るべき何ものもなく、社会的には取るに足りない存在を意味しています。彼らはまた、無防備であり、他者(大人たち)の助けを必要としているものたちです。つまり彼らの本質は、依存的な性格のものです。

そのような小さい存在、弱い存在を、キリストとの結びつきのゆえに、大切な存在として受け入れる者は、その子どもたちを愛しておられる主イエスを受け入れることである、と主は言われます。さらにそのことは、主イエスをこの世に遣わされた神を受け入れることでもある、と言われます。つまり、「神の代理者のごとき存在としての子ども」として子どもが位置づけられているのです。これは驚くべき教えです。

主は、この教えによって、子どもを絶賛しておられるのではありません。そうではなくて、子どもに代表される弱く、貧しい者、人々に顧みられない者たちを、この世の地位や持ち物の多少に関係なく、掛け替えのない一人の人間として受け入れることの大切さを示しておられるのです。(*このときの弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と論じ合っていました。それは人生において、たいしたことではないのです。)

それが、小さく貧しいイスラエルをご自分の民として選ばれた創造主なる神、馬小屋を御子の生まれる場所として定められた憐れみに富んだ父としての神、さらに十字架上での死を忍ばれたへりくだりの主イエス・キリストを受け入れることにつながっていくのです。

当時、社会的に低い評価しかされていなかった子どもに関して、この二つの教えのように、それを信仰の模範として示し、あるいは愛と受容の対象として示すことによって、主イエスは、神の前に生きる人間のあり方、神の子としての生き方に新しい視点を与えられました。子どもたちが何を持っているか、将来何になるかが、彼らを評価する基準ではなく、存在そのものが、神の前に尊いのです。

このことは、今日においても、いや今日においてこそ、人類において確立されなければならない大切な視点である、と言ってよいでしょう。

 これらのことを踏まえながら、さらに考察を深めたいと思います。そのとき、一人のドイツの心理学者あるいは精神分析学者の教えがとても示唆的であることを思わされます。

. <持つ>様式と<在る>様式

その人は、エーリッヒ・フロムErich Fromm)です。彼は日本語訳で、『生きるということ』1976年、日本語訳は1977年)という書物を書きました。それに基づいて、考えます。

その書の原題は、To Have or To Be?です。直訳すると、「持つことか、在ることか
となります。フロムは、人間の基本的な存在様式を、<持つ>様式と、<在る>様式の二つに大別して、考察しています。

<持つ>様式とは、その人が所有しているもの(財産、知的財産、地位、栄誉など)がその人の価値を決定する、というあり方です。今日は、持つ文明の時代であり、物を持つことが生きる目的となり、多くを持つことが偉いことであり、そうなることによって喜びを味わう傾向が強い社会であることをわたしたちは知っています。それが、比較と競争の社会を生んでいるのです。

一方、<在る>様式とは、持つことから自由にされ、存在そのものを尊び、喜ぶ生き方のことです。所有や出自(出身)やこの世の評価によるのではなく、そこに生かされてあるということを最も大切なこととして、人を見る見方です。条件を付けずに、人の存在を受け入れるのです。

そして、自分に関しては、自分に所有が許された物は、他の者たちと分かち合うことこそが豊かな生き方である、と考える生き方です。こうしたことを最も大切なこととする生き方においては、他者への関心と愛、分かち合いが生まれ、ときには自己犠牲が伴うこともありますが、それを敢えて選び取ることをします。それが、共に生きる関係と社会を創り出していくのです。 

 聖書における主イエスの子どもたちに関する教えから示されることは、<在る>様式の大切さです。子どもは、社会的尺度によれば、何も所有していませんし、生産活動もしていません。しかし、その存在そのものが、それ以外の者たちに彼らを受け入れることを求めています。彼らの可愛さや無邪気さ、愛おしさなどに価値があるのではなく、その存在そのものがわたしたちにとっては意味と価値を持っているのです。なぜなら、その背後に、その子を存在せしめた、創造主である神の意思と愛があるからです。

 (子どもという小さい存在は、また<社会的弱者>をも象徴しています。それらの人々は、わたしたちの主イエス・キリストへの関わり方を試している存在でもあります。今、そのことにはこれ以上触れることはいたしません)

今日の社会状況、世界状況は、最初に触れたとおり、深刻なものです。キューバについては、「50年以上の経済的封鎖によって…子どもの健康や成長が危機にさらされている」(式文8)とも言われます。しかしそれも最近の、キューバとアメリカの国交回復によって、少しずつ改善されていくに違いありません。それを期待したいものです。

わたしたちが生きているこの世界のあり方が、一挙に、一朝一夕に、変化することはないでしょう。だからこそ、わたしたちの一つ一つの生活の場所、空間、諸関係において、この子どもを中心においた主の教えが尊ばれることによって、それが全体に広がっていくことが大切なのです。

 最近読んだ「日本 子どもを守る会」編集の『2015年 子ども白書』の特集は、「戦後70年 寛容さを失う社会-子どもを信頼できますか?」というものです。この副題である「子どもを信頼できますか」を読んだとき、最初は心にズキッと突き刺さるものを覚えました。これには、子どもを信頼してはだめ、ということが含まれているのかな、と感じたからです。しかし読んでいくうちに、その意味することが分かりました。それは寛容さを失った社会のなかで、子どもを信頼しよう、子どもを受け入れようという訴えであり、そうされているとの実感が子どもにあるとき、子どもは生きようとすることができる、というものでした。

子どもは傷つきやすいもの、壊れやすいもの、イレギュラーな行動に走りがちなものです。しかしそうした子どもを、わたしたち大人は、寛容をもって受け入れるのです。神の前にあっては、貧しいわたしたち大人も、子どもと少しも変わりはない存在です。この貧しい、小さなわたしたちも、神によって受け入れられているのです。そのことを忘れてはなりません。

わたしたち大人の子どもに対する眼差しが、主の教えにそったものとなることを主は期待しておられます。少なくとも、主にあって生かされているキリスト者であるわたしたち自身に、今、それぞれのおかれている場所において、この主の教えに忠実でありたいという強い意志と祈りがあるとき、事態は少しずつ変えられていくに違いないのです。わたしたちはそれを信じて生きていくのです。

世界の主であるイエス・キリストは、そうしたあり方を、世界祈祷日の集会をとおして、全世界の人々に求めておられます。身を引き締め、心を引き締めて、生きていきたいものです。

 これは、201634日(金)に行われた、世界祈祷日函館地区集会のメッセージの全文である。今年の世界祈祷日のテーマは、「子どもを受けいれなさい、そしてわたしをも ― キューバからのメッセージ」である。式全体は、キューバ式文編集委員会の作成による式文に従って行われた。函館地区集会は、今年は、日本キリスト教会函館相生教会が会場であった。





「いのちの土台
ルカによる福音書
6章46~49節
   
2015531()
特別伝道礼拝説教
函館相生教会牧師 
久野 牧

あるドイツの説教者が、自分にとって最も悲しく響く主イエスの言葉は、 今日の46節の「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」である、と言っています。主のみ言葉を聞きながら、なぜその聞いた言葉のままに生きようとしないのかと言われる主イエスの言葉の中に、主イエスの痛切な訴えを聞きとっているのです。皆さんはいかがでしょうか。

主イエスは、わたしたちに対して、聞き放しであるとか、聞いて単に「ああ、いいお話でした」というしばしの感動や満足で終わるということであってはならない、と訴えておられるのです。

主イエスが語られる言葉には、救いに関して、二つの働きがあります。その一つは、〈救いに至る道〉を指し示す働きです。そして、もう一つは、〈救いの中を生きる道〉を示す働きです。

第一のものは、人間が何ものであるか、真の命、真の救いを自分のものにするにはどうしたらよいか、そうしたことに関する真理を示す働きです。それは、主ご自身の働きを明らかに示すことでもあります。そのような特質をもっている言葉に対して、わたしたちに求められていることは、それを聞き、受け入れ、信じ、そしてそれを自分の確信として告白することです。そのみ言葉によって、わたしたちは新しい霊的世界に導かれていくのです。

 さらに主イエスの言葉の持つもう一つの働きは、〈救いの中を生きる道〉を示すことです。この場合、聞き、受け入れ、信じている言葉を行うこと、その言葉が指し示していることを、そのままに実行することが求められるのです。主の言葉のままに生きるのです。

主イエスは、今、この第二のことについて語っておられます。神の言葉として聞いたことは、そのとおりに生きなさい、生きてほしい、と主は訴えておられます。英語で「服従する」という語は、本来、「聞く」という語に由来するものであることも、聞くことと従うこととの関係を示しています。聞くことが、従うことに結びつくときに、意味あるものとなります。

 み言葉を聞いて行うことに関して、インド建国の父と言われるマハトマ・ガンディが、このように述べています。彼は19世紀後半から20 世紀半ばまで、インドの民主化のために、非暴力抵抗の精神で運動を展開した政治家であり、思想家です。彼はインドのヒンドゥー教徒でしたが、イエス・キリストを最高の指導者、預言者、師と仰いで、尊敬していました。特に主イエスの山上の説教を愛し、その教えを実行したことで有名です。次のように述べています。

 「わたしは確信しているのですが、神はいつの日かわたしたちに、わたしたちが名のっている宗教の名称ではなく、わたしたちは何であるのか、すなわち何を実行しているのかを尋ねるでしょう。いや、今日、すでに尋ねておられるのです。神にとっては、行為がすべてであり、行為の伴わない信仰はゼロです。神にとっては、行為が信仰であり、信仰は行為です」。

 この考えは、キリスト教信仰的には、問題を含んでいるかもしれません。しかし、こう述べるガンディ自身は、愚直なまでに主イエスの教えに忠実に生き、非暴力平和主義を貫きました。彼の信じることは行動として表され、彼の存在全体を支えました。そして周囲に大きな影響を及ぼしました。

 主イエスの語られる言葉、そして広くは、聖書の言葉は、文化や、教養を提供するもの、生きるヒントを与えるものというのではありません。そういう働きもするでしょうが、決してそれだけで終るものではありません。まず心を傾けて聞く、そして次に行う、そうした応答を、主イエス・キリストの言葉は求めています。

 読むだけでよい書物も数多くあります。あるとき、感動して、いつかは忘れ去られる書物や言葉もあります。しかし主イエスの言葉はそうではありません。決断と行動、すなわち、生き方の変更を求めるものです。それが伴ってこそ、主のみ言葉は正しく聞かれた、ということになるのです。主が語られる言葉とそれを聞くわたしたちとの間に、生命的関係が結ばれなければなりません。

 主は、そのように、み言葉を聞いて行うことが、わたしたちの人生とか、命に対して持っている意味を、一つの分かりやすいたとえをとおして教えておられます。それが4849節の「川のほとりに建てた二軒の家のたとえ」です。

 ひとりの人は、川のほとりの地面を深く掘り下げて、岩を掘りあてて、それを土台として、その上に家を建てました。もうひとりの人は、土台なしで地面の上に家を建てました。前者は多少困難を伴い、後者はごく簡単にできます。建てられた家は表面的には何の違いも見られないし、また平常時には両者の間にどんな違いがあるかは分りません。 

 しかし、特別な状況下では、両者の違いが顕著に表れ出てくることになります。その特別な状況とは、大雨が降り、洪水が押し寄せて来たときです。地面から深く掘り下げられて、かたい岩を土台として建てられた家は、流されることもなく、耐えることができます。一方、地面の上にただ建てただけの家は、川の水の流れによってはげしく揺さぶられ、ついには倒壊します。

 見かけは同じようであっても、何を土台としているか、何の上に建てているかで、特別な状況においての違いが生じてくるのです。つまり、ふだんは見えない部分が、危機に直面したときに見えてくるのです。家の土台についての主のお話は、よく分かるたとえです。イソップ物語に出てきそうな話です。

 主イエスはこの短いたとえによって、わたしたちの人生、生涯、いのちのあり方について教えようとしておられます。つまり、わたしたちは皆、自分の人生の建築者として、何を土台として据えるか、ということについて語っておられるのです。その内実が堅固なものであるかどうか、見た目には分からない、一人ひとりの人生です。それが違いを見せるのは、その人が危機的状況に遭遇したときです。人生にはさまざまな試練があり、それぞれの年代に困難があり、いのちや存在の破壊の危機に見舞われることがあります。そうしたときに、それぞれのいのちや生きることを支えるのは、ふだんは表面には表れ出ていないために見えない部分、すなわち、何の上に自分の人生の土台を据えているかということです。それが確かな岩の上に建てられているとき、その人のいのちは危機に直面して揺らぐことはあっても、耐えることができるでしょう。

 しかし逆に、確かな土台や基礎を持たない人の生やいのちは、危機の中でもろくも崩れ去ってしまうことがあるのです。主イエスは、そうあってほしくはないという強い思いをこめて、このたとえを語っておられます。そして主イエスは、すべての人に対して、それぞれの生の土台としてのご自分を指し示しておられるのです。

 主イエスは、「わたしこそ、あなたがた一人ひとりの人生と存在を支える土台である」と言ってくださっています。それが基本にあります。しかしそれだけでなく、さらに突っ込んで、主イエスを知るだけでなく、主イエスのみ言葉や教えを、実際に行うことが、あなたがたの人生の土台をより強固に築きあげることになるのだ、と教えておられます。主イエスを人生の指針として発見することだけではなく、その教えやみ言葉を聞いて実際に行うことが、その人を支える確かな土台をつくりあげることになる、ということです。そうした主イエスとの動的な関係、応答的あり方、生命的関係が、日頃なされることによって、その人のいのちの土台は、確かにその人の内で固く据えられることになるのです。

ヤコブは次のように述べています。

 ヤコブの手紙121節「み言葉を受け入れなさい。このみ言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」。それに続いて、122節「み言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」とも述べています。み言葉を聞くことと並んで、それを行うことが強調されています。み言葉は、それに従って生きられなければなりません。

 それではみ言葉を行うとは、どういうことでしょうか。それは、簡単ではありませんが、主が命じられるままに、また求められるままに生きることです。主が「敵を愛せよ」と言われるなら、自分にとって難しい相手であっても、そうしようとすることです。「仕えられるのではなく、仕える者になりなさい」と求められるのであれば、人々に仕える道を探るのです。「絶えず祈りなさい」と命じられる主のご指示に従って、困難な中でも小さな祈りをささげ続けるのです。そうしたことのくり返しや積み重ねによって、知らず知らずの内に、その人の内面は固められるとともに、少しのことでは揺るがないその人の生というものが、築き上げられていくに違いありません。なぜなら、主イエスのみ言葉、主イエスの教えには、主のいのちが宿っており、主の力が伴っているからです。それゆえ、そのみ言葉を行おうとする者には、主のいのちと主の力を伴った結びつきが与えられ、それがその人を支えるのです。その結びつきは、その人の困難や危機的状況の中で、大きな力を発揮することでしょう。

 わたしたちは、そうしようと心がけても、実際にはそうすることができない弱さや、もろさがあります。わたしたちは誘惑に負けがちな心、困難にくじけてしまいそうな魂の持ち主です。けれども、み言葉に生きようとする者を、主イエスご自身が支えてくださるのです。そこにその人の強さがあり、堅固さがあります。わたしたちの弱さの中で、主の強さが現れ出るのです。

こうして築き上げられた主イエスとの結びつきは、死の場面においても、わたしたちを支えてくださいます。死の出来事においても、主との結びつきは、断たれることはありません。そしてさらに、究極の危機である終わりの審きのときにも、この結びつきが切れることはなく、わたしたちそれぞれを、永遠のいのちに導くのです。復活の主がそうしてくださるのです。主が生きておられるので、わたしたちも生きるものとされます。それが、いのちの土台ということです。

 主イエスは、このように、この世を超えた世界のことも視野に入れながら、今生かされている時の間に、主の言葉に従って生きることをとおして、主との結びつきを作り上げるように招いてくださっています。そのような「時」は、地上で生きている「今」しかありません。主のみ言葉を行うときは、今なのです。

こうして築かれた主との結びつきの中で生きる者は、主が永遠であられるゆえに、その人もとこしえに生きる者とされます。そのことの尊さと恵みを覚えたいと思います。そして、この希望に生きる者は、強いのです。主にあるこの確かさ、この希望を、多くの人々に伝えることが、わたしたちの光栄ある務めです。


「信じない者ではなく、
    信じる者になりなさい」
―復活を疑うトマスへの
            主の言葉―

 ヨハネによる福音書
       202429
         2015426()

   説教 函館相生教会 牧師 久野 牧


 今日の聖書箇所には、ディディモと呼ばれるトマスが登場します。彼は主イエスが選ばれた十二人の弟子の一人で、これまでも、数は多くはありませんが、何度か登場しました。たとえば、主イエスの別れの説教の場面では、このように彼のことが記されています。「トマスは言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか』」(145)

今日の場面では、彼は主イエスの復活を疑う弟子として登場しています。トマスは、19節以下に記されている主イエスのよみがえりの日の夕方、弟子たちが集まっていた時に、その家にいなかったのです。そのため、他の弟子たちから、「わたしたちは主を見た」、すなわち、復活の主に出会ったと告げられても、容易には信じようとせず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と頑固に主張しています。自分の感覚で確かめ、納得するまでは、主イエスの復活を信じることはできない、と言っているのです。

  このようなトマスの態度は、不信仰で疑い深い性格の人として、「懐疑家トマス」など呼ばれて、非難されることがあります。先ほど歌った讃美歌197(讃美歌「21)では、「疑いまどうトマス」として登場します。しかし果たして、そうした評価が当っているでしょうか。トマスは性格的に疑い深い人であり、科学的・実証的に証明されなければ、なにごとも受け入れない、という近代人のような思考でもって、主イエスの復活を疑っている、と考えるべきなのでしょうか。
そうした考えは、必ずしも当っていないように思います。彼が主イエスの復活を受け入れることができないでいる一つの原因は、「死がすべての終わりである」と考える一般的に受け入れられている死生観、生命観によるのではないでしょうか。それに立つ限り、死の理解が根底からくつがえされるような「死人がよみがえる」ということなど、誰もが容易に信じ、受け入れることはできないのです。それゆえ、トマスの反応は、彼が特別に疑い深い人間であったからということによるのではなくて、人としてふつうの反応である、と見ることもできるのです。


  それでは、この段階で、他の弟子たちが主の復活を信じることができるようになったのに対して、トマスはまだ信じることができないということは、なぜなのでしょうか。それをどのように説明することができるのでしょうか。それは、24節と26節を比較して読むときに明らかにされてきます。


24節「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」


26節「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」

  つまり、よみがえられた主イエスが、最初に弟子たちの前に姿を現されたとき、そこにトマスはいませんでした。その八日後、皆と共にトマスがいたときに、再び主イエスが現れました。そのときから、彼は信じる者になりました。つまり、信じる者たちの群れの中にいるか、いないかが大きな違いを生み出す要因となっているのです。

  ヨハネ福音書は、信仰の疑いや迷いは、教会の交わりに身をおくことを抜きにして克服されることはない、ということを教えようとしているのです。主がご自身を現わし給う信仰者の群れから離れて、主イエスの復活を信じる信仰は、決して生まれてくることはないし、信仰の疑いが解決されることもないのです。主イエスが招集される群れから身を遠ざけるとき、その人の魂と救いにとっての多くの大切なものを失ってしまう、という示唆がここにあります。

  わたしたちが不用意に逃がしてしまう一つの礼拝において、今、このわたしに最も必要な魂の糧が差し出されているかも知れないのに、それをわたしたちは逸してしまうことがあるのです。このことの重大さ、深刻さを、わたしどもはもっとていねいに考えなければならないのではないでしょうか。
 
  復活を信じる信仰に生きることができる者となるためには、信仰共同体である教会に固く結びつくこと、そこにしっかり身をおくことが何よりも大切なことなのです。キリストの体である教会を離れて、真の復活信仰、いや信仰そのものに生きることはできないのです。信仰生活の中心に、礼拝があります。神が備えてくださった信仰創造の場、信仰維持の場、それが礼拝です。主なる神ご自身がその場に臨んで、創造的働きをしてくださいます。

  わたしたちは、この霊的な事実を、もっと大切にしなければなりません。また、このことをもっと大胆に、確信をもって語っていかなければなりません。あまりにも人間的な同情や遠慮は、かえって相手の人に、真理へのきっかけを失わせることになるのです。

  わたしたちは一回一回の礼拝が持つ終末的意義を、重く考えるべきでしょう。このわたしが、礼拝の民であることを抜きにして、自らの信仰を保ち得ないのであれば、ましてや、あの兄弟、あの姉妹にとって、そのことはさらに不可欠なことなのだ、ということを考えつつ、わたしたちは礼拝への自分の姿勢をさらに整え、またそこへの招きの行為を強めていきたいものです。 

  さて、主の復活を、自分で確認するまでは決して信じないと言っていたトマスは、その後どうなったでしょうか。二十六節以下にそのことが記されています。「八日の後」、すなわち、主イエスの復活の主の日も入れて八日というのは、次の日曜日のことです。その日も弟子たちは一つの家に集まって集会をもっていました。そして今度はそこに、トマスもいたのです。わたしたちはこの事実の中に、二つのことを見ることができます。

  その一つは、ボンへッファーの言葉を借りるなら、「トマスの疑いの誠実さ」をここに見ることができる、ということです。彼は、他の弟子たちがよみがえりの主に会ったことを告げたときに、すぐに信じることは拒みました。強く疑ったのです。にもかかわらず、彼は次の日曜日に、弟子たちの群れの中に加わることを拒みはしなかったのです。自分の疑いゆえに、信じる人々を軽蔑しませんでした。彼らが信じていることが真実ならば、自分はまだ信じることはできていないけれども、その真実を知りたいというトマスの誠実さが、彼の足を、主の日に弟子たちの集まりへと向けさせているのです。疑うトマスの真剣さ、誠実さをここに見ることができます。そのことが一つです。

  もう一つのことは、この疑うトマスを受け入れる仲間、集団がそこにある、ということも大切なことです。他の弟子たちは、トマスが主イエスの復活を信じることができないということによって、彼を交わりから閉め出したり、交わりを拒んだりしてはいません。むしろ積極的に、彼を次の日曜日の集まりに参加するようにと促したのではないでしょうか。こうした集団がトマスにあったということは、幸いであり、尊いことでした。このことが第二です。


 そのような集団と弟子たちに対して、主イエスは、前の主の日と同じように、戸をかたく閉ざしていたに違いない家の中に入って行かれるのです。そして前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と声をかけてくださっています。このたびは、特に、トマスに向けて、あるいはトマスを目指して、主は進んで行かれ、彼自身に向かってであるかのように、「平和があるように」と言われました。主は復活を信じることができないトマスを放っておかれることはありません。  


  それに続いて、主イエスは次のように言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27)。「自分の目と手で、復活の主を確認しなければ決して信じない」と言っていたトマスに、主はご自身の十字架上の傷あとにトマスの指や手でさわることを許しておられるのです。何という憐れみであり、何という主のへりくだりでしょうか。「さわって確かめてごらん」と言われる主イエスの姿を想像するだけで、わたしたちの胸は熱くなるのを覚えます。そうすることがトマスの信仰にとって必要なことであれば、主イエスはご自身の体の傷あとにふれることさえもお許しになる、そこに主イエスの愛と真実が表されています。


 そうした主イエスのあり方を、リュティという神学者は、「主は弟子たちを〈個性的に〉取り扱われる」、という言葉で表現しています。十把ひとからげではなく、一人ひとりにふさわしいあり方で、主はその人に近づいてくださいます。わたしたちに対しても同じです。わたしたちの信仰の状態や心の状態に応じて、そしてまた肉体の状態に応じてさえも、主はそれぞれにふさわしく近づいてくださるのです。


 このように自分に迫ってこられる主イエスの恵みに満ちた姿勢と言葉によって、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」との告白をもって、復活の主を信じる者に変えらました。このとき、トマスが主イエスの傷あとに触れたかどうかは、何も記されてはいませんが、それは重要なことではありません。主イエスの語りかけと、主イエスとの新たな出会いによって、彼の固い心の殻が打ち砕かれたのです。それは、トマスの内に新しく信仰が創造されたこととして捉えることができます。

  主イエスがつねに願っておられることは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」ということです。人がそのようなものとなるために、主は自らを低くして、一人ひとりに近づいていかれるのです。

  今、主は見えない形で、教会においてご自身を現しておられます。み言葉において、また聖礼典において、そうしておられます。それらの中に主イエスを見るものは、「見ないのに信じる人は幸いである」(29)と言われる人々です。生前の主イエスも、復活の主イエスも、もはや肉の目では見ることはできません。しかし、教会において、確かに働いておられる主イエスを見るのは信仰の目、霊の目です。それは聖霊によって、わたしたちのものとされます。礼拝の場に身を置くならば、必ず、今も生きて働いておられる主との出会いが与えられ、その人の内に信仰が創造されることでしょう。

  わたしたちは、主を見る目をいよいよ澄みきったものにしていきたいし、さらに、その目を与えられる人が、教会の働きの中で生まれてくることを切に祈り求めつつ、主の招きを伝えていくものでありたいと願います。
 
 (なお、当日の説教題は、「復活を疑うトマス」でした。)

「天の故郷に向かう旅人」
教会創立記念日礼拝
ヘブライ人への手紙11章13~16節
                                                                                                                       2014年12月7日(日)
                                                                                                      函館相生教会牧師  久野 牧


    函館の地に福音の種子がまかれてから2年後の1883127日に、函館相生教会は、日本キリスト一致教会の一つの教会として、この地に建設されました。それから131年を経過して、本日を迎えています。現在の礼拝堂が建てられたのは、1987 年です。
 わたしたちの教会が、これだけの長い歴史を刻むことができたのは、単に人の力だけによるものではなく、神の力強い支えと導きがあったからであると、心からそう思います。それゆえに、わたしたちが歴史を振り返り、今日ここにあることを覚えるときに、なすべきことの第一は、神への感謝をささげること、そして、神を賛美することです。
  詩編682021節に次のように歌われています。わたしたちの心は、その詩人の心そのままです。
  「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神は私たちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神」
 神賛美とともに、わたしたちの心の内に生じるのは、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」(13)と言われていることがらです。数多の先達の労苦と奉仕に対する感謝の思いです。教会の基礎をしっかりと築き、幾多の困難の中で、この地の多くの人々の魂の救いのために身を捧げた先達の働きを抜きにして、今日を迎えることはできなかったのです。
 わたしたちは思いを新たにして、このキリストの体である教会、救いの砦、救いのための神の国の前線基地として建てられている信仰共同体である教会の業を、これからも推し進めていきたいと願うものです。

 教会は、かしらである主イエス・キリストを先頭にして、天に向かって旅を続ける旅人たちの群れにたとえられることがあります。その旅の集団は、決して固定されたものではありません。旅の時々に、隊列に加えられるものが与えられます。また、地上の隊列から、天の国へ移されるものもあります。さらには、隊列の集団の中で、新しく生まれ出るものもあります。あるいは残念なことに、隊列を離れていくものもあるのです。
 そのように、(ふさわしい言葉であるかどうかは不明ですが)離合集散をくり返しながら、あるいは成長、停滞、縮小をくり返しながら、中核にある人々を中心に、教会は旅を続けていきます。そしてつねに願うことは、この隊列が、少しずつではあってもふくらむこと、成長することです。


 その旅の途中では様々な困難や戦いに遭遇します。日本キリスト教会全体としても、旧日本キリスト教会時代から考えると、実に大きな社会のうねり、国家のうねりの中で、戦いを強いられてきました。それは一個教会であるわたしたちの教会においても同様です。全体教会が遭遇した困難と連動した困難がありました。
 またそれだけではなく、函館相生教会固有のものもあります。三度の大火に見舞われたこと、異端的な教えとの戦い、国策としての戦争に正しく抵抗できず、かえってそれに妥協し協力するという過ちを犯したこと、また社会的現象(たとえばオウム真理教の問題など)による大きな影響を受けたことなどがあります。
 喜ばしく輝きに満ちたことばかりではなく、暗く陰うつなことも、心痛むことも、悲しむべきことも、地上の旅を続けるこの信仰者の隊列には起こるのです。
 15節に「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません」と述べられているように、この隊列に属している人は、いつでも、これに加わる以前の生き方へと戻る機会はあったのです。しかし、それにもかかわらずほとんどの人々はそうはせずに、この隊列に留まり、労苦を共にし、重荷を担い合ってきました。

 わたしたちの信仰は、「にもかかわらずの信仰」と言われます。それはどういうことを意味しているのでしょうか。
 過去に目を向けるなら、人は罪ある身であるにもかかわらず、み子イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦され、救いへと導かれたということがあります。神の国の一員になるにはふさわしくないものであるにもかかわらず、神が我が子として一人ひとりを取り扱ってくださることによって、即ち、神の限りない愛によって、天に向かう一団の群れが形成されたのです。
 また将来に目を向ければ、神の国に、わたしたちが帰るべき故郷が用意されていることを知ることができます。地上の歩みは、死をもって終わります。しかし それですべてがおしまいということにはなりません。わたしたちは、他の生けるものと同じように、いつか死んでいき、朽ちていくにもかかわらず、わたしたちには、天に属する命、朽ちない命が用意されているのです。その約束に向かって、それを信じる信仰に立って、教会という集団は、旅を続けています。
 目に見える地上の教会は、そうした信仰者たちのこの世に対する前線基地です。信仰こそが、その集団を一つに結びつけています。教会の周辺からは、様々な圧力や誘惑が襲いかかってくることがあります。そういう中で、教会は、社会に自分たちを適合させようとするのではなくて、社会がこの旅人の集団と歩みを共にするようにと祈り願うのです。社会を構成する人々の中から、この信仰の旅団に加わる人が生まれてくるようにと、教会は仕えるのです。かしらであるキリストはこの囲いの中にいない羊たちをも招いておられます。その主イエスの思いに忠実に仕える教会でなければなりません。

 しかし今、その教会は大きな曲り角に立っていまなす。あるいは巨大な壁に直面させられていると言ってもよいでしょう。まだ実行されていませんが、北海道中会の中で今日の教会の現状を共に考える集会を開きたいとする人々の趣旨説明の中に、次の一文があります。
 「日本キリスト教会の教勢は、1992年をピークに減少し続け、2013年度の現住陪餐会員は、日本キリスト教会の教団離脱後の4中会構成となった 1953年の数とほぼ同数になっています。特に日曜学校や青年会に見るように、青少年の減少は深刻な状況にあると言わざるを得ません」。
 これは日本キリスト教会全体のこと、あるいは北海道中会の状況のことが訴えられている文章です。しかし、それはまた、わたしたちの教会の状況にもそのままあてはまるのです。わたしたちの教会の礼拝出席や現住陪餐者は、会堂建築のあとの年1988年~1989年をピークに、次第に減少傾向をたどり、現在は、1950年代の数字に戻っています。全体教会と各個教会、特に、ある程度の歴史を経過した教会の傾向はよく似ています。そして、それは社会の人口動態の曲線ともほぼ並行関係にあることが分かります。
 全体も同じ、他教会も同じ、だから悲観したり、落胆したりしなくてよい、ということではないでしょう。また、仕方がないこととしてあきらめる、ということでもないに違いありません。わたしたちは教会を巡る客観的な状況をそのまま受けとめつつ、どうにかしてこれを突破するための祈りと努力と試みが求められているのではないでしょうか。


 わたしたちは、ヘブライ人への手紙が記しているように、天の故郷を望みみています。その希望の中で、今、最大限の働きをしようとしているのです。天のふるさとに迎え入れられることを熱望し確信しながら、地上の歩みにおいては、その生の終わりまで、天のふるさとに迎え入れられるにふさわしい歩みをしようと努めるのです。わたしたちの地上の歩みや働きは、貧しく、欠け多いものであるに違いありません。しかし、わたしたちの神は、そのように弱く、貧しく、つまずきがちな者たちの「神と呼ばれることを恥」とはなさらないお方なのです(16)。わたしたちのすべてを神は受け入れて、共に歩みをなしてくださるのです。まさに、インマヌエル、わたしたちと共におられる神です。
 キリストのこの世への誕生は、「神の冒険」と表現されることがあります。罪ある人間の世界に、神は愛するひとり子を送られました。それはまさしく神の冒険でした。それは神の愛がなせる業でした。クリスマスは、神の冒険の表れなのです。
 そうであれば、わたしたちもこの神に励まされて冒険しなければなりません。目には見えないけれども、確かな約束の下に存在する天の故郷に向かって、信仰の旅人である教会は冒険をしなければなりません。内に閉じこもって嘆き、つぶやくのではなく、外に向かって福音宣教のために仕えるのです。131年目の教会創立記念日を迎えたわたしたちは、ここから教会の新しい歴史を刻む思いをもって、立ち上がらなければなりません。クリスマスは、教会の決起の時でもあるのですから。




牧師からのメッセージ
(10月6日更新)

「バベルの塔の物語の今日的意義」 


特別伝道礼拝
創世記11章1~9節    

2014年9月28日(日)

函館相生教会牧師 久野 牧

聖書は、核エネルギーや原子力発電の問題を知っていたでしょうか。答えは、「ノー」です。聖書のどこにも、それらについてふれた箇所を見出すことはできません。しかしそうだからと言って、それらの問題について、聖書が何も発言していないということではありません。たとえば、今日のバベルの塔の物語が、その問題についての鋭い警告を発していると読むことができます。どういう意味で、このバベルの塔の物語が、原発問題など今日の問題について発信しているのか、そのことを、ご一緒に考えてみましょう。

時代ははっきりしませんが、今から数千年前のティグリス・ユウフラティス川にはさまれた古代メソポタミア地方のことであろうと考えられています。神が造られた世界に、人の数が増えてきました。言葉も一つで、何を話してもみなすぐに通じ合いました。それはよいことです。

そのような中で、人間はいろいろな技術を身につけてきました。それは人間の生活にとっては進歩です。例えば、家を建てる技術も進歩させてきました。山から重い石を切り取って運ぶのではなくて、「れんが」(ブロック)を作って、それを積み重ねて、建物を作り上げることができるようになりました。また、接着剤として、漆喰の代わりに、もっと強力なアスファルトを用いることが出来るようになりました。これは進歩です。

こうして、当時の最先端の技術を用いて、巨大な建物を建てることが可能になってきました。それは、一面では良いことであると共に、他面では問題を抱えることにもなります。いつの時代もそうですが、科学的なこと、技術的なことの進歩は、人類に益となる部分だけではなくて、危険な側面も伴うのです。コンピューターの

問題、医療技術や生命科学の進歩、宇宙開発の問題など、すべて、明と暗を抱えています。人は、人の力でできることを何でもしてよいわけではありません。その判断には、倫理や思想や信仰が必要なのです。そこでの判断を誤ると、人の命は大きな危険にさらされることになります。

さて、れんがとアスファルトの技術を身につけた人々は、何を考えたでしょうか。人々の考えは4節に記されています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」。

「天」とは、単に空高くということではなく、神がおられると人々が考えていたところのことです。そこにまで届くとは、自分たち自身が神のようになって、すべてのことがらを、神に尋ねることなしに、自分たちの考えや判断だけで決定し、実行しようという意味を表しているものです。その企ては、言葉が一つなのですぐに一致しました。

「有名になろう」とは、口語訳で「名を上げる」と訳されていたように、神の名に抵抗して、人間の名を上げようとしていることです。したがって、それは神を必要としない生き方を画策しているものである、と言ってよいでしょう。

また、「全地に散らされることのないようにしよう」とはどういうことでしょうか。ここにも神への敵対の心が表わされています。神は、人を造られたときに、次のように命じられました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)。神のお考えは、人は増えて、全世界に広がり、神が造られた世界を、み心にそって守るようにということでした。それに対して、今、人々は、「全地に散らされることのないようにしよう」と言って、神の命令には従わない意志を表しているのです。ここにも神に敵対する人間の姿が表れ出ているのです。自分たちが手に入れた技術や力を神の栄光のため用いようという敬虔で、謙遜な思いは全くなく、人々はただ自分たちの名を上げ、自分たちを誇るためにだけ、それらを用いようとしているのです。それは危険を伴うことでした。

聖書は、そこに神を介入させることによって、彼らの技術に対する過信、もっと言えば、技術の神格化に対して、警告を発するという場面を設定するのです。人々の企ては、神の領域を侵すことです。してはならないことに手を差し入れることになります。人間の傲りが形をとって表れているとの神の判断が、神に行動を起こさせています。それが、主なる神が降って行ってなさる阻止行動です。

それは見た目には(表面的には)、人の創造活動の中止と人間の結びつきの混乱という現象を生じさせていますが、それはまた人間の救いともなったのです。神の手による破壊は、神の手による新しい創造と救いをつねに含んでいます。神が地に降りられるとき、必ず愛が伴っています。それを見てみましょう。

神がなさったことの一つは、人々が話す言葉を混乱させて、互いの言葉が分からないようにすることでした。神の不思議ななさり方です。直接、塔を破壊するのではなくて、同じ言葉を交わし合うことによって、悪しきことを企てることになるその言葉を乱れさせて、互いの心を通じ合わなくさせる、そういう方法で、人間の悪しき業にストップをかけられるのです。

そこで神が意図しておられることは、人が互いの考えのみで事を進めていくのではなくて、誰もが共通の神に聞くことによって、み心に従うものとなるということではないでしょうか。人は、他の人の言葉に耳を傾ける前に、聞くべき言葉があります。それこそ、唯一の神の言葉です。人々はそれを回復しなければなりません。

神は言葉を混乱させることと共に、もう一つ、人々を「全地に散らされた」(9節)と記されているように、一つの塔の中に集結しようとしていた人々を、そこから世界の各地に散らされたのです。人の思いで何かを企てることよりも、神の造られた大地の良い管理者としての責任を果たすことを、神は求めておられます。人が各地に散らされることは、神の前から追放されることではありません。それは、それぞれが、神と真摯に向き合うための場を備えてくださっているという恵みの業なのです。

こうして、この町には、今までにはない混乱が生じました。そのために、以後、この町と塔には、ヘブライ語で「混乱」を意味する「バベル」という名がつけられることになったのです。それが聖書に記されている物語です。

これによって何が示されているのでしょうか。この混乱から何が生まれてくるのでしょうか。それは人間の傲慢が砕かれて、人が被造物(造られたもの)としての謙虚を身につけることです。人間が神に代わって地上の主人公になろうとする企てが、神によって阻止されることによって、自分たちの能力と技術に酔っていた人々の錯覚と愚かさがあらわにされました。人間の限界が示されました。それは人間にとって良いことです。

神は確かに、人を神のかたちに似せてお造りになりました。しかし、それは人が神と等しいものとされた、ということでは決してありません。神に似せて造られたものは、神に倣って生きるときにこそ、正しく生きることができるのです。

神の高みにまで達しようとする人間に対して、神は逆に下に向かって降っていかれるお方です。神はみ子においてわたしたちの世界に降りて来てくださいました。

イエス・キリストは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6~7)。わたしたちが倣うべきは、この神のひとり子の姿です。僕の身分になられたみ子に、へりくだりをもって仕える姿こそが、わたしたち人間が追求すべき生の姿です。人間の名ではなく、このお方の名をこそ高めるべきなのです。

このことを原発問題にどのように関係づけることができるのでしょうか。この礼拝の場は原発を直接論じる場ではないので、深く立入ることはしません。バベルの塔の建設中止の物語は、人はつねに造られた者としての限界を弁え、人の技術や科学的方法に「絶対」はないことを覚えなければないことを教え示しています。「絶対」は神に属することです。人間の技術を絶対と思い込むとき、あるいは思い込ませるとき、命が損われるのです。

主は言われました、「人はたとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8:36)。原発の問題は、命を失う問題につながることを覚えなければなりません。今と将来、人と自然の命を担うものとしての原発という視点から、わたしたちはこの問題を考えるべきです。

神は今、地上の各地に新しい塔をお建てになりました。キリストを土台とする教会という塔です。これは高くなくてよいのです。そこに真の命を求める人々が集められることを神は願い、聖霊とみ言葉に満ちる教会を建てられました。今もその業は続いています。わたしたちの教会もその一つとして、この地に建てられました。わたしたちは、多様な考えと課題とを抱えている人々が、神の言葉という共通の言葉を求めて集められてくることのために、仕えなければなりません。教会は、この地の人々にとっての救いの砦という役割を担わされたものなのです。                                     
                                

牧師からのメッセージ
(5月26日更新)

『あなたがたは、地の塩、世の光である』      

  ( マタイによる福音書5章13節~16節)

2014年4月27日 函館相生教会礼拝 

子どものための説教 
牧師 久野 牧
                        

今日は、イエスさまが山の上で人々に教えを始められた時の話をしましょう。

 5章の始めの小見出しに、『山上の説教』と書いてあるでしょう。ここからずっと何章かにわたって、イエスさまが山の上で群衆や弟子たちに向かって教えられた説教がまとめられて書かれています。これを「山上の説教」と言います。

その中のひとつの教えが、今日の「あなたがたは地の塩、世の光である」という言葉です。聞いたことはありますか。結構有名なことばで、教会に来ていない人でも、イエスさまが言われた言葉として、知っている人が多くいます。みんなにも、聖書の言葉をたくさん心に刻んで欲しいのですが、この言葉も「地の塩、世の光」とは何かをよく理解して、心の中に刻んでほしいと思います。

 はじめに、『塩』や『光』の役割についてはじめに考えてみましょう。

塩の役割は? 味付けをする、食物などの保存のために使い、腐敗を防ぐという役割がありますね。では、光の役割は? 周りを明るくする。暗い洞穴の中にいたときに、ぽつんと光が見えたら、「あっちに出口があるんだな」と、わたしたちが向かう方向を示してくれるという役割も光にはありますね。

 それでは、塩と光はたくさんあった方が良いと思いますか? 塩がたくさんあったら、しょっぱすぎて食べられない。光がたくさんあったらまぶしくて、辺りがかえって見えないくらいになってしまう。だから、塩もたくさんある必要はないですね。ほんの適量、ふさわしい量だけあれば、その役割を果たすことができます。

光も、たくさんなくてもいい。たくさんあった方がいいときもあるけど、多くありすぎる必要はありません。少しあるだけで、周りの様子が何であるかわかるし、暗闇の中では、「あっちに行けば助かる」と、その一点の光だけで助かることもある。そのように、『塩』や『光』には、少量でも大切な役割を果たすという共通点があります。

次に「あなたがたは地の塩、世の光」とは、いったいどういう意味なのかを考えてみましょう。「あなたがた」というのは弟子たちのこと、イエスさまを信じる弟子たちのことです。それでは、「地」とは何でしょうか。「世」とは何か。それはいずれも、世界というよりも、「人間」、「人々」と考えてください。

したがって「あなたがたは地の塩だ、世の光だ」ということは、あなたがたは人々の間で「塩」であり、「光」であるということです。

もっとわかりやすくいうと、あなたがたは人々の間で塩のような役割をしなさい、あなたがたは人々の中で光のような役割ができるということです。

だから、社会や人々の中で、他の人達の心に傷があるときに、わたしたちがもし、それを和らげたり、世界や人々が崩れていこうとするときに、「それはやめたほうがいいよ」と言って、社会や人間の腐敗を防いだり、あるいは、人々の間の雰囲気が険悪なときに、何か柔らかくなるようなことを語ったりすることができる。それは『塩』の役割を果たしていることです。

あるいは、わたしたちは今こっちに行っているけれど、それとは別の方向に行くべきではないかというように、わたしたちが進むべき道や方向を示すことができたら、それはもうその人は「世の光」の役割をしているということになるんですね。『塩』や『光』は人々の命や生き方に深くかかわるものであることが分かります。

では、そういう役割をわたしたちは自分の力だけで、自分の考えだけで、自分の能力だけですることができるでしょうか。できないですね。わたしたちにとっての本当の光とは何でしょうか、誰でしょうか? わたしたちにとっての本当の塩とは誰か、を考えなければなりません。

それは、これを語っておられるイエスさまが、わたしたちにとっての塩であり、光なのです。わたしたちの腐敗を防いでくださり、わたしたちの人生に豊かさをもたらせてくださる。わたしたちが、今どこにいるかわからないような心の迷いの中にあるときに、イエスさまは、わたしたちの周りを照らして、「あなたは今ここに居るんですよ。あなたはこっちに行くんですよ」と教えてくださる。だから、光の役割、塩の役割を、第一にイエスさまが持っておられるのです。そのイエスさまにわたしたちは結びつくことによって、またイエスさまを他の人に紹介することによって、わたしたちは塩の役割、光の役割をすることができるものとなります。

わたしたちの言葉ではなくて、イエスさまがおっしゃった言葉を、他の人に伝えることによって、その言葉が塩の役割をする、光の役割をします。イエスさまに従って、御言葉に従って、わたしたちが何かやるべきことができたら、それが他の人にとって光の役割をしたり、塩の役割をすることになります。そういうことなのですね。

わたしたち自身は塩とか光のような力や能力は持っていない。本来そういうものは、わたしたちのうちにはありません。でも、イエスさまに結びつくことによって、世の人々の光の役割をしたり、他の人々のために塩のような役割をすることができるのです。だから、「あなたがたは、地の塩である。世の光である」と言われるときには、「わたしに結びついていたら(イエスさまに結びついていたら)、あなたがたは塩の役割をする、光の役割をする、ぜひそうあって欲しい」と、イエスさまがわたしたちに期待しておられることを告げてくださっているのです。

周りの人に「あなたは何でそんなこと考えることができるの?」とか、「どうしてそのように言えるの?」と、言われることがあるでしょう。そのき、「だって、わたしにはイエスさまがいるんだもん。イエスさまがそうおっしゃっているから…」と答えるならば、「さすが、やっぱりね」ということになるでしょう。周りの人は「あなたにはイエスさまが背後にいるから、後ろにいるからそういうことができるんだ。そういうことが言えるんだ。」ということになります。

その働きをすることが、みなさんには小さいときから、神さまによって期待されています。それに応えることが出来るかどうか、わたしたちには自信はありませんが、きっとイエスさまがそうさせてくださるに違いありません。「わたしにも塩の役割をさせてください。わたしにも光の役割を果たさせてください」という祈りや願いや求めがある限り、「よし、あなたも塩の役割をしなさい、光として働きなさい」と、イエスさまが言ってくださり、期待してくださいます。そういう期待が、日曜学校の生徒にも、礼拝に集まっている全ての人にも、イエスさまからかけられているのです。

「イエスさまのご期待にお応えしなければいけない」、そういう思いを持って、このイエスさまのお言葉を聞くことができたら良いですね。



『求めなさい、そうすれば与えられます』  

マタイによる福音書7章7~12節
 (2014年5月11日 函館相生教会礼拝)

子どものための説教  牧師 久野 牧
                   

  今日の聖書の箇所も、先週と同じように、イエスさまが山の上で弟子たちに話された話の続きです。

今日の最初の言葉は、これまで聞いたことがありますか? 『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』。

ずっと以前の聖書では、「求めよ。さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん」という難しい言葉でした。多くの大人の方たちは、この言葉で覚えておられることでしょう。今は「求めなさい。そうすれば、与えられます」というように、やさしい言葉になっています。

 「求める」とは、誰がすることでしょうか? 「求める」とは、わたしたち人間がすることですね。それに対して、「与える」とは、誰がすることでしょうか? それは、神さまがすることですね。次の、「探す」とは、誰がすることでしょうか。これもわたしたち人間がすることです。探しているものを「見出す。見つける」ことは、誰がしてくれることでしょうか?そう、神さまですね。最後の「門をたたく」は、もうわかりますね、これはわたしたちがすることです。そうしたら、門が『開かれる』ことは、神さまによってなされることです。だから、ここには、人間がすることと、神さまがしてくださることとが、三つずつ書かれていることになります。

したがって、「こうしなさい」と言われていることは、人間がすることで、それは神に祈ることを表しています。そして、「そうしたらこう~するでしょう、こうなるでしょう」ということは、神さまが約束を果たしてくださることを言っています。

このように、イエスさまは、人が祈ることと、それに神さまがこたえてくださることとを、三つの面から教えてくださっています。人間の祈りに対して、神さまが応えてくださるという約束に満ちた言葉が、「求めよ、探せ、門をたたけ」の教えなのです。

これは聖書の言葉であり、イエスさまの言葉ですけれども、実は、キリスト教以外の、日本の他の宗教でも、『求めたら与えられます』、『探したら見つかります』、『門をたたいたら開かれます』という教えを、自分たちの宗教の教えの中に取り入れているものもあるくらいです。それくらい、これは有名なもので、祈ったり、願ったりすることの大切さを教えているものです。

さらに一歩進んで考えてみましょう。わたしたちが求めようとするときは、わたしたちの心がどういう状態のときでしようか。どういうときに、わたしたちの心に、求めることが生まれてくるでしょうか。難しいかな。わたしたちが何かを求めるときには、そうそう、何かを欲しいからです。自分の中にそれが無いから、欲しい、だからそれを求めます。

では、探すというのは、どういうときにするでしょうか。そう、何かを無くしたときですね。何かを失ったとき、探すということをします。最後に、

どういう時に門をたたくでしょうか? それは、開けてもらうためですね。今いる場所は、自分が本当にいる場所ではない、この門のあちら側に移りたいから、門をたたいて開けてもらおうとする、ということです。

求めるのは、わたしの中に今、大事なものがないと気がついたときです。また、本当は自分が持っていなくてはいけないものを失ってしまったために、神さまに探してもらう。自分は、本当はここにいてはいけない、もっと別の場所に移らなければならないと思うとき、門をたたいて、「神さま、自分が本当にいなくてはいけない場所に移してください。そこへ行く門を開いてください」とお願いします。

そういうことが、「求めなさい」「さがしなさい」「門をたたきなさい」が意味していることです。だから、神さまに、必要なものを与えてください、人間として失ったものを回復させてください、人間として本来あるべきところに連れ戻してください、と祈ることが大事なことなのです。「求めよ」『さがせ』「門をたたけ」とは、神さまに祈ることです。そうすれば、本当に必要なものだったら、神さまは与えてくださる、という約束の教えが、ここにあります。

本当に必要ならば、わたしたちに必要なものが何であるかを知っておられる神さまは、必ず与えてくださいます。神さまが、最も良いと思われるときに、そうしてくださいます。遊ぶためのものばっかり求めていても、与えられないかもしれません。それは、「今、あなたに必要で無いから」ということで、神さまが与えられないものもあります。

あるいは、何年か前に祈っていたことが、思いがけないときに、実現することもあります。それは、そのとき、神さまが、あなたにとってそれが必要だから、と考えてくださったからです。

神さまは打てば響く鐘のようすぐ応えてくださる面と、『どん、どん』と打っても、なかなか鳴らない太鼓のように、答えが返ってこないこともあります。そのときは、わたしたちが待たなければいけないときです。しかし、本当に心を込めて祈るならば、神さまは必ず応えてくださいます。そのことを、今日の主イエスのお言葉は教えておられるます。このイエスさまの言葉を信じること、神の約束を信じることが、わたしたちの祈りにおいては大事なことです。

 このことに関連した別の話をしましょう。ヨーロッパの教会でこういうことがありました。ある年、ひでりが続いて、雨が降らない日々が続きました。そのとき、ある教会で、「そうだ、明日、畑に集まって、神さまに雨乞いの祈りを、皆でささげよう」ということになりました。雨乞いというのは、「雨を降らせてください」と神さまに祈ることですね。

日曜日の次の日、約束の時間に、教会の人たちが集まってきました、雨乞いの祈りをするためです。その人たちの中に、ひとりの女の子が、雨傘を持ってきました。かんかん照りの、雨が降りそうにない天気の日に、女の子は、雨傘を持ってきたのです。そしたら、大人の人たちが笑いました、「あはは、何でこんなに天気の良い日に、傘など持ってくるのか。ばかだね」。

どっちがおかしいのでしょうか。女の子は、「雨乞いの祈りをしたら、神さまが雨を降らせてくださる。祈れば、神さまは応えてくださる」ということを心から信じていたからこそ、雨傘を持ってきたのです。た。一方、大人の人たちは、「祈っても雨は降らないだろう」と思って、傘を持ってきた女の子のことを笑ったのです。

どちらが、心から神さまを信じている態度でしょうか。純粋な気持ちを持って、神さまに祈っているのはどちらでしょうか。何か大事なことを教えられる話ですね。「雨乞いの祈りをするときには、傘を持っておいでよ」ということですね。



「新しい命に生きる」        


復活節礼拝説教

ヨハネの手紙一、5章6~12節
2013年3月31日(日)

函館相生教会 牧師 久野 牧

受難週の歩みを終えて、イエス・キリストの死からの復活を記念する復活節の日を迎えました。この日こそ、「イエス・キリストとは、どういうお方であるか」について深く思いを巡らし、聖書の言葉に耳を傾けることが大切でしょう。そのために、わたしたちに与えられている聖書の言葉は、ヨハネの手紙一5章6~12節です。

6節から始まる段落の小見出しに、「イエス・キリストについての証し」と記されているように、神から遣わされたイエスがキリストであること、すなわち救い主であることを証し、証明するものは何かということが、ここで述べられていることが示されています。その典型的な言葉が6節です。

「この方は、水と血を通って来られた方」、「そして霊はこのことを証しする方です」と述べられています。ここでの「水」と「血」とは何を言っているのでしょうか。結論から言うと、「水」は、主イエスが洗礼者ヨハネから受けられた洗礼のこと、あるいはそのときの水のことです。「血」とは、主イエス・キリストが十字架上に釘づけされた時に流された血のことです。

したがって、イエスが「水を通って来られた」とは、主イエスが本来罪の洗い流し、罪の赦しを意味する洗礼を受ける必要のないお方でありながら、それを受けることによって、罪あるわたしたちと同じ立場に立ってくださったことを意味します。罪人の罪をご自身のものであるかのように担って、共に苦しみ戦いつつ、神からの赦しを求めて生きる生き方をなさった方、それが主イエス・キリストです。「水を通って来られた」とは、罪人との連帯と愛に生きた主イエスであることを云い表わしています。   

一方、「血を通って来られた」というのは、主イエスが十字架の死において地上における救いの業を完結されたことを意味するものとして、理解することができます。主イエスにとっては、罪の赦しのための水、すなわち洗礼が必要でなかったように、罪に対する神の裁きとしての十字架刑も不必要なものでした。その刑を受けなければならないいかなる罪も、主イエスは犯されたことはないのです。しかし、主イエスは、罪人に代わって神の裁きを受け、それによってわたしたちが神の裁きによって死ぬことがないようにしてくださいました。その裁きの刑が十字架であり、釘づけされた主の体からは、血が流れ出たのです。「血を通って来られた」とは、このように、主イエスの十字架の死によって、わたしたちの十字架が避けられ、罪の赦しの道が開かれたことを指しているのです。

ヨハネの手紙一、1章7節に次のように記されているとおりです。「御子の血によって、あらゆる罪から清められます」。主イエスの水による洗礼が、わたしたちへの愛を表しているように、キリストの血もまた、わたしたちに対する主イエス・キリストの究極の愛を表したものです。そしてその愛によって、わたしたちは今を生かされ、将来への希望が備えられているのです。

主イエス・キリストがいかなるお方であるかを証しする「水」と「血」は今日の教会においては、洗礼と聖餐という形で受け継がれ、それがわたしたちをキリストに結びつけ、わたしたちの救いを約束するものとして守られています。本日の礼拝においても、二人の方の洗礼式を通して、キリストによる罪の赦しの働きが今も続いていることが証しされています。また聖餐式によって、キリストの死がわたしたちの新しい命の源であることが証しされます。神が主イエスに与えられた復活の命と同じ命が、洗礼を通してわたしたちに与えられ、聖餐において、それを確信するのです。こうして、洗礼と聖餐は、主イエス・キリストがいかなるお方であるか、どのような業を行ってくださったかを指し示すだけでなく、主による救いの恵みそのものを、今日わたしたちに差し出しているのです。

 さて、今日の聖書箇所には水と血に加えて、もう一つ“霊”のことがふれられています。これは神の霊、すなわち聖霊のことです。「“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです」(6)と記されています。この“霊”は主イエスの水と血とが、主イエスが救い主であることを証しするのと同じように、今生きて働き給う神として、わたしたちを主イエス・キリストに結びつけ、主イエスによる救いの内容を明らかにし、さらに救いそのものをわたしたちのものとするために、神に執り成してくださっているお方なのです。そのことを、ヨハネは、「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」(7~8)と述べています。それは「神の証し」(9)、神がなさっている証しです。

 この教え(あるいは、この宣言・告知)は、理解し、受け入れるのに、必ずしもやさしく、分かりやすいものではないかも知れません。しかし、神が、水と血によって、更に聖霊の働きによって、御子キリストが何者であるかを証ししようとしておられるのであるならば、わたしたちはこれらを通しての証しによって、主イエスに近づいていくほかありません。

この神の証しを信じ、受け入れることについて、さらに考えてみましょう。

 神の証しを信じ受け入れるとは、究極的には、神が証ししようとしておられる内容そのものである御子キリストを信じ、救い主として受け入れることです。そしてそれはまた、神ご自身を唯一の神として信じることでもあります。「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に云い表す者は、御父にも結ばれています」(ヨハネ一、2章23節)。

 御子キリストを信じ、父なる神を信じるとは、頭の中だけの作業ではありません。神が御子キリストによってなさったことは、わたしたち人間の救いのためのものであり、わたしたちが真に生きる者となるための真実な救いの業であることを信じること、そしてわたしたち自身を全面的に神に明け渡して生きることです。何をなすにもみ心を問いつつ、イエス・キリストを唯一の主としてそのご指示に従順に従う生き方を貫くこと、それが信じるということです。信じるとは、存在をかけた生涯の行為なのです。

 御子キリストを信じて生きようとする者を、ヨハネは、「御子と結ばれている人」(12)と言い、その人には「命(永遠の命)がすでに与えられている」(12)とも記されています。「御子と結ばれている人」という句は、口語訳では「御子を持つ者」と訳されていました。ある人を持つとは、その人との間に人格的、生命的な関係や交わりをもっていることを意味します。主イエスに真の命があるからこそ、その方と結びついている者にも、命がもたらされます。ここでぶどうの木とその枝との関係を思い描くこともよいでしょう。命の木に結びつくことによって、その枝にも命が宿るのです。

わたしたちに求められていることは、次の言葉によって言い表されています。

「素直さと純粋さとをもってみ言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)を受ける者は、神の御子を持ち、神の国の一員である」(リュティ)。それはすなわち、そのようにする者には神の国の命、ヨハネの言葉で言えば、「永遠の命」がすでに与えられているということです。

「永遠の命」とか「神の国の命」と言われても、わたしたちはその実体を把握するのには、非常に困難を覚えます。わたしたちは、むしろ、永遠の命を与えられることが、今、わたしたちに何をもたらすかを考えてみることの方が、益があるでしょう。その命が与えられていることは、現在、死の出来事の手前にいるわたしたちの生き方にも深く関わりを持つはずです。

御子を持つことは、御子と結びつけられることであり、それは御子の命を分け与えられることです。そのことは何よりも、わたしたちの肉体の死が最終的なものではなく、主に結びついての死は、無に帰するのではない、という希望を与えるものとなります。最終的に、わたしたちが神に受けとめられているということは、死の恐怖や空しさからの解放をわたしたちにもたらすのです。その解放を与えられた者は、与えられている地上の命を、神への服従のために用いようとします。あるいは他者への奉仕のために自分の命を差し出すことができます。終りの時のこと、あるいは死後のことは、神によって保証されているゆえに、信仰者は、それらのことについて思い煩うのではなく、今の一瞬一瞬を、一日一日をどのように主にお応えするかが最も重要な課題となるのです。

「わたしたちが復活の命を確信すればするほど、時間の命(今の命)の困難に負けないものとなる」(ブルンナー)。

使徒パウロも次のように述べています。

「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一、15章58節)。

「わたしたちの苦労は決して無駄にならない。なぜなら労苦するわたしたちの命は、復活の主の命と結びついているのだから」、と語る信仰に固く立っている使徒パウロの言葉に支えられながら、わたしたちも今の時を力強く生きていきたいと思います。

力強く生きるとは、神に対しては誠実であり続け、人に対しては、その人の平安と救いのために必要なことであれば、何でもする、という生き方を意味します。復活の命を確信させられたこの復活節の日から、そのような生き方が新しく始まるのです。復活節は、わたしたちの命を新しくする力を持っています。

 

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函館相生教会における説教パンフレット 目録

以下のものは、函館相生教会の牧師・久野牧が、主日礼拝その他の集会で語った説教および講話の記録(パンフレット)です。 1~8は、1ページB5版で片面印刷、9~19は、1ページA5版で、両面印刷です。それぞれ6~7ページです。

お申し込みくだされば(番号あるいは説教題を書いて)、お送りいたします。御住所・御氏名を明記してください。代金は、一切必要ありません。

(尚、頂きました個人情報はこの目的以外には、一切使用いたしません)

1 「今からでも遅くはない」(マタイ20:1~16)(2006年10月22日 秋の特別伝道礼拝)

2 「三十八年の病のあとに」(ヨハネ5:1~9)(2007年10月21日 秋の特別伝道礼拝)

3 「主を知らないと言う弟子」(マルコ14:66~72)(2008年3月16日棕櫚の主日礼拝)  

「あの方は復活なさった」(マルコ16:1~8)(2008年3月23日 復活節礼拝)〔合本〕

4 「出会いが人を変える」(ルカ19:1~10)(2008年5月18日 春の特別伝道礼拝)

5 「神に造られた生きものたち」(創世記1~2章)(2008年5月22日 野外集会)

6 「因果応報の考えを断つ」(ヨハネ9:1~12)(2008年6月26日 鹿部地区集会)

7 「死を待つ者、そして主を待つ者」(ヘブラ9*23~38)(2008年6月29日修養会主日礼拝)

8 「神の眼差しと人間」(ルカ18:9~14)(2008年9月21日 秋の特別伝道礼拝)

9 「イエスの母マリアの賛歌」(ルカ1:46~56)(2008年12月7日 待降節礼拝①)

10 「ヨハネの父ザカリアの賛歌」(ルカ1:67~80)(2008年12月14日 待降節礼拝②)

11 「ピラトによる主イエスの裁き」(ヨハネ18:20~40)(2009年4月5日棕櫚の主日礼拝)

12 「わたしは、復活であり、命である」(ヨハネ20:1~10)(2009年4月12日復活節礼拝)

13  「仕える者として生きる」(マルコ9:30~37)(2009年4月19日 主日礼拝)

14 「赦すこと、愛すること」(ヨハネ21:15~19)(2009年5月17日春の特別伝道礼拝)

15  「金や銀にまさるもの」(使徒言行録3:1~10)(2009年9月27日秋の特別伝道礼拝)

16  「ひとり子イエスに込められた神の愛」(ヨハネ3:16~21)(2009年12月20日 クリスマス礼拝)

17  「子どもを主イエスのもとに」(マルコ5:21~44,35~43)(2010年2月6日 

キリスト教保育連盟道南地区研修会礼拝)

18 「主の復活、ハレルヤ」 (マルコ16:1~8) (2010年4月4日復活節礼拝)

19 「求めなさい。そうすれば与えられる」 (マタイ7:7~12)(2010年5月30日春の特別伝道礼拝)

(2010年6月3日現在)

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当教会では、主日礼拝を、全面的に合同礼拝として実施いたします。

親子が一緒の礼拝に連なり、同じみ言葉を聞き、讃美を歌い、大人と子どもが互いに関心を持ち合うことが大切だ、と考えたからです。

日曜日の時間割はおおむね次のようになります。 

★午前 9時45分 ~ 10時15分 日曜学校分級     日曜学校室

生徒は、まずこの分級(クラスごとの聖書の学び)に参加します。

続いて、大人との合同の礼拝に出席します。

★午前10時30分 ~ 11時00分 合同礼拝出席     礼拝堂 

礼拝のある時点で、子どもだけ退席します。

子どもたちは、このあと帰宅したり、教会内で自由活動をしたり、また保護者と共にそのまま礼拝に出席することもできます。

子どもさんを伴っての礼拝出席に躊躇を覚えておられた方々も、ご遠慮なく礼拝においでください。お待ちしています。

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牧師のプロフィール 

久野 牧

Nozomu Hisano

1941年 京城(現韓国)に生まれる。

1973年 日本キリスト教会神学校卒

犬塚伝道教会、八女伝道所(九州中会)、徳島教会(近畿中会)、札幌北一条教会

(北海道中会)を経て、2006年4月から現職

著  書

『教会生活の道案内』(一麦出版社)

-知っておきたい、あらためて考えてみたい、わたしたちの教会生活-

『基督教信仰 Q&A 』(一麦出版社) \1,800+tax

キリスト教信仰にまつわる疑問の数々、・・・・・

そんなあなたの「素朴な疑問」に答えます 

『講解説教ガラテヤの信徒への手紙フィレモンへの手紙 』

『ピリピ人への手紙―講解説教』

『講解説教 ヤコブの手紙』

『あなたの怒りは正しいか』(ヨナ書講解説教) 

『神に栄光・地に平和―クリスマス説教集』(クリスマス説教集)